コラム
功利主義についてAre You Utilitarian? その4
今回からしばらくの間、「他人間の福利をいかに比較するか」、講学上の概念を使って言えば、「集計主義の問題にいかに立ち向かうか」についてお話ししたいと思います。
福利最大化の理念を追求するうえで集計主義の問題を避けて通ることはできません。資源の稀少性を考えるならば、すべての人が他人の福利を侵害することなく自分の福利を無制約に実現していくことは不可能であり、そうである以上、国の統治政策を通じて福利の最大化を目指すためには(それが私の唱える功利主義の理念です)、他人間の福利の大小を比較することが必要となるからです。
但し、この問題を論じるためには、そもそも「福利とは何か」ということについて多少哲学的な考察を加えるところから話を始めなくてはなりません。「哲学」と聞いただけで読書意欲を失う方もおられるかもしれませんが、手短に話しますのでしばらくお付き合いください。
【福利とは何か ― 客観的利益説と心理的快楽説】
最初に、法の実践者としての私の考えを述べておきましょう。法の実践という観点から考える限り、福利という概念は憲法が体現している諸価値とできる限り整合的に捉えられるべきであり、そうである以上、福利とは、「国民各位が、各自の構想する善き人生を実現するために欲求するもの」と解すべきであると思います。ただし、この考え方は、現代の代表的な功利主義哲学者の唱える見解とはやや異なります。例えば、我が国における現代功利主義思想の旗手であり、私自身もその著書から学ぶことの多い小川亮博士は、「人は究極的には常に自らの快楽を追求している(心理的快楽説)」という理解のもとに、快楽そのものを福利と同定することを提言しておられます(小川亮『一元的司法審査論』484頁以下参照。なお、小川博士の用語法によれば、私のような考え方は「客観的利益説」と呼ばれるものにあたるようなので、以下では、私の見解をそう呼ぶことにします)。思うに、福利が価値として実在することを論証する目的(この論証が哲学上重要であることは疑いを入れません)のためには心理的快楽説の方が優れているのかもしれません。
しかしながら、「福利の最大化に明らかに反する立法行為や行政行為は違憲である」と考える私の立場から申しますと、福利概念を憲法の諸規定の文言と整合的に解釈することは死活的に重要であり、この観点から言えば、客観的利益説の方が心理的快楽説よりも目的合理性が高いように思います(最高裁判事が「快楽こそが福利のすべてである」と判決書きに記す事態が訪れるとはとても思えません)。もっとも、(これは小川博士自らが述べておられることですが)、「熱」という概念と「分子の運動エネルギー」という概念が概念としては同じでないにしても、「熱」を手に入れるのに、「熱」が本当は「分子の運動エネルギー」であることを知っている必要はないように、善き人生を実現するために人が欲求するものが究極的には全て快楽に還元され得るとしても、そのことを知らずに福利概念を用いた法律論を展開することに支障が生じることはないと思います(前掲書482頁参照)。
そこで、私の定義に従って(すなわち、客観的利益説に則って)福利とは「国民各位が、各自の構想する善き人生を実現するために欲求するもの」と解することにいたしましょう。
【福利の比較・集計は可能か ― 効用概念の導入】
しかるところ、この福利概念は、比較可能・集計可能な概念と言えるでしょうか。この問題に関して、小川博士と並んで現代功利主義哲学のエースと目される安藤馨一橋大教授は次のように述べておられます。
「世界の道徳的価値がどれだけあるかを考えるのに、集計など不要である。あなたの目の前にコップがいくつかあり、そこに水が様々な量入っているとしよう。コップの水が水であることはどうしようもなく明らかである。目の前に水がどれだけあるかを知りたい時に、総和集計以外の手順を採るのは馬鹿げている。・・・」(安藤馨『統治と功利』217頁)
これは、哲学者でしか言えない非常に魅力的なご発言だと思います。しかしながら、この見解を司法の世界にそのまま用いることはできません。なぜならば、判決書きを始めとする司法の言語空間において概念の比較や集計を行うためには、当該概念を(最終的には、法廷に顕出される資料を通じて)検証可能な程度に数量化する必要があるところ、概念を数量化するためにはその単位を明らかにしなければならないからです(ただし、念のため付言すれば、安藤教授の上記発言は「福利が道徳的価値であることが論証できる」ことを前提とする立論ですので、上記の指摘に対して、同教授は、「客観的利益説や心理的快楽説に依拠した福利概念は『非道徳的価値』に過ぎないから、その文脈で自分の見解を援用されては困る」とおっしゃるかもしれません)。
しからば、いかにすれば福利概念を数量化するための単位を見いだせるのか。ここで登場するのがミクロ経済学における「効用」という概念です。まずは、効用という概念が導出されるまでの論理の過程をできるだけ数学的表記を使わずに説明いたしましょう。
ミクロ経済学が想定する社会モデルにおいては、すべての自然人(以下、「消費者」という)は、様々な消費計画(市場に存在する様々な財または役務〈以下、単に「財」という〉をそれぞれ任意の単位だけ消費する計画のこと)を構想し、構想した消費計画同士を比較して、その間に「どちらの消費計画の方が好ましいか」という順位付けを行うことができると考えます(この好ましさの順位のことを「選好関係」と呼びます)。そのうえで、すべての消費計画を最も好ましくないものから最も好ましいものまで並べて、そこに1から始まる自然数を順次割り当てます(好ましさが等しい消費計画には同じ自然数を割り当てます)。この結果、最も好ましい消費計画に割り当てられた自然数がNであったといたしましょう。そうすると、ある消費者にとって構想可能なすべての消費計画を独立変数とし(市場に存在する財の数がn個であれば、この独立変数はn次元のベクトルとして表現されます)、上記の方法によって各消費計画に割り当てられた1からNまでの自然数の値を従属変数とする関数が定義できたことになります。そこで、この関数のことを「効用関数」と呼び、この関数の従属変数である自然数のことを「効用」と呼びます。
以上によれば、各消費者はそれぞれに独自の効用関数を有していることになり、ある人が、(他の財の消費量は変えずに)ある財の消費量を1単位増やした場合に、これによって生じる効用の数量の変化を「限界効用」と呼ぶとすれば(より数学的に言えば、効用関数を連続性のある関数と捉えたうえで、同関数を対象となる財の数量で偏微分した値が限界効用です)、限界効用は財1単位の消費がもたらす福利の大きさの数量的表現と言えるでしょう。これによって福利を比較するという私たちの企ては大きな一歩を踏み出しました。なぜならば、
- 財の消費が消費者の欲求の充足をもたらすものである以上、限界効用をもって福利の変化量と捉え、ある財の限界効用の総和(数学的に言えば、効用関数を当該財に関して積分した値)を以てその財がもたらす福利の総量と同視することは、客観的利益説に基づく福利概念と整合性の高い思考形式であり、
- 選好概念が人の行動を通じて観察可能なものである以上、限界効用は相当程度に検証可能な概念であり、
- 限界効用は自然数という数学的に明晰な単位によって表し得る概念であるがゆえにその大小の比較が(少なくとも形式的には)十分に可能な概念である
からです。
【限界効用の限界 ― 他人間の福利比較という難問】
しかしながら、限界効用には一つの弱点があります。それは、効用が同一人物の消費計画の選好関係を表すために割り当てられた恣意的な数字である以上、(効用を表す各数字に同じ数を加えたり、各数字に同じ正の値を掛け合わせたりするなど)関数の大小関係が変わらない変換(これを「単調変換」と言います)を行っても、効用関数の同一性は失われないという問題です。このことは、限界効用という概念は、同一人物に対して異なる財の得喪がもたらす福利の変動の大きさを比較するためには有効な概念であるものの、これを他人間の福利の大きさを比較する目的に使うことはできないことを意味します(効用の数字自体に独自の意味がない以上、異なる人の効用関数上の数字を比較することに意味を見出すことはできません)。しかしながら、この問題は、限界代替率とニュメレールという二つの概念を導入することによってかなりの程度に克服することができます。
最初に、限界代替率という用語の使い方を示しましょう。ある消費者に関して、所与の消費計画の下で、ある財(以下「対象財」という)の消費量を1単位増やせるならば別の財(以下「計測財」という)の消費量をx単位減らしても消費計画全体の効用が変わらない場合、「計測財で測った対象財の限界代替率はxである」と表現します(数学的に言えば、効用関数を対象財の数量で偏微分した値〈すなわち対象財の限界効用〉を、効用関数を計測財の数量で偏微分した値〈すなわち計測財の限界効用〉で除した値が限界代替率です)。例えば、Chateau Margaux を1本飲めるならば、ゴルフをする回数を2回減らしてもよいと私が考える場合、ゴルフのラウンドプレイ数で測ったChateau Margaux の(私にとっての)限界代替率は2となるわけです。効用を表す数字は恣意的なものであってそこに独自の意味を見出すことができないと先ほど申し上げましたが、限界代替率は具体的な意味を持った数字です。なぜならば、限界代替率は、対象財の数量を同財に固有の単位で表した値(例えば、ワインボトル「1本」)を計測財の数量を同財に固有の単位で表した値(例えば、ゴルフのラウンドプレイ「2回」)と比較した数値だからです(数学的に言えば、効用関数に任意の単調変換を加えても限界代替率は変化しないことが、限界代替率の有意義性を保証しています)。したがって、二人の人物の間に、計測財として用い得る共通の財があれば、この財の単位を用いて、異なる対象財がこの二人にもたらす福利の大小を比較することが可能となります。例えば、私の友人のS氏が、但馬牛のシャトーブリアン1枚(300グラム)をいただけるならば、ゴルフをする回数を2回減らしてもよいと考えている場合、Chateau Margaux 1本が私にもたらす福利と但馬牛のシャトーブリアン1枚がS氏にもたらす福利はおおむね等しいと考えてよさそうです(ただし、この論理は、「一回のゴルフのラウンドプレイがもたらす福利に関して私とS氏の間に大差はない」ことが黙示の前提となっています。この点については後でお話しします)。従って、すべての人に共通する計測財(これを、「ニュメレール」と言います)があれば、ニュメレールの単位を使って、あらゆる財があらゆる人にもたらす福利の大小を比較することが可能となるわけです。
【金銭的福利概念の問題点 ― 貨幣の限界効用は一定か】
しかるところ、貨幣経済の下で生きている現代人にとって、ニュメレールとなり得る財はただ一つ、すなわち、貨幣だけがニュメレールたり得るものです。したがって、貨幣の単位(日本であれば、「円」)を用いることが、異なる人の間の福利を汎用的に比較するための唯一の方法となります。現実的に考えても、例えば、Aさんは、200万円もらえるならば自分の車を手放す用意があり(このような金額の下限を「受取り用意額」と呼ぶことにします)、一方で、Bさんは、インプラントの治療を受けるために200万円を支払う用意があるとすれば(このような金額の上限を「支払い用意額」と呼ぶことにします)、①自分の車を継続して保有することがAさんにもたらす福利の大きさは200万円を下回り、②インプラントの治療がBさんにもたらす福利の大きさは200万円を上回り、③そうである以上、Bさんがインプラントの治療によって得る福利の大きさは、Aさんが自分の車を継続保有することによって得る福利の大きさを上回っていると言えそうです。
しかしながら、上記の論理には一つの飛躍が含まれています。と言うのは、たしかに①と②はそのとおりなのですが、そこから③の結論を導き出すためには、200万円という現金がAさんにもたらす福利と、同じく200万円の現金がBさんにもたらす福利が同価値であることが黙示の前提となっているからです。はたして、この前提は正しいと言えるでしょうか。「200万円を使って買えるものはだれにとっても同じなのだから、200万円の現金がもたらす価値は誰にとっても同じはずだ」。そう考える人もいるかもしれません。しかし、残念ながら、この考えは正確とは言えません。たしかに、200万円支払って追加取得できる財の種類と数量は誰にとっても同じでしょうが、それらの財がもたらす限界効用の大きさはその人がすでに持っている財の総量に依存せざるを得ず、そうである以上、貨幣の限界効用そのものも、保有する財の総量によって変化すると考えざるを得ないからです。このことは、例えば、アメリカの大富豪のC氏が愛犬のトリミングに300万円支払う用意があり、他方で社会保険に入っていないアメリカの低所得者のD氏が300万円の費用がかかる癌の放射線治療を断念したからといって、愛犬のトリミングによってC氏が得る福利が放射線治療によってD氏が得る福利を上回っているとは考え難いことからも明らかと言えるのではないでしょうか。念のため、この点をもう少し数学的に説明しておきましょう。貨幣の限界効用が一定であるためには、貨幣の消費量と消費計画全体がもたらす効用との間に比例関係が成立しなければなりません。両者が比例関係にあれば、効用関数を貨幣量で偏微分した値は常に定数(規格化して言えば、「常に1」)となるからです。そして、貨幣の限界効用が一定であれば、対象財の限界効用は常に限界代替率と比例する(規格化していえば、「一致する」)ので、対象財の追加取得がもたらす限界効用を、保有する資産の総量にかかわらず、貨幣の単位を使って一義的に特定できます。しかしながら、貨幣を消費すればするほどそれに比例して福利が増大する(客観的利益説に従って言えば、「善き人生の実現が貨幣の消費量に比例する」)とは到底言えないでしょう。命ある時間に限りがある以上、そこまで貪欲に生きることが「善き人生」であると構想する人はいないように思えます。
ここまでの議論を整理すると次のように言えるでしょう。
- 憲法の諸規定を踏まえて作り出された福利概念(客観的利益説)には単位の概念が内在していないので、この概念のままでは、福利の最大化という指導理念に従った言説を司法の世界で展開することは困難である(この問題は、福利概念を心理的快楽説によって同定したとしても変わらない)。
- 上記の問題は、福利を経済学上の効用概念と同視することによって相当程度克服できる。効用概念を使えば、福利を受取り用意額や支払い用意額という金銭の単位を使って数量的に表すことが可能となるからである(このようにして数量化された福利概念を以下「金銭的福利」と呼ぶことにします)。
- 但し、上記の立論は貨幣の限界効用が一定であることを黙示の前提とするものであるため、この前提がリアリティを欠く状況において金銭的福利概念を用いた福利最大化論を展開すると精度の低い(場合によっては、非常識な)議論とならざるを得ない。
【市場原理の保全 ― 金銭的福利概念の修正が不要な理由】
以上の点を踏まえて言えば、福利の最大化を目指した言説を司法の場で展開するうえにおいて、金銭福利概念を用いることが有用な手法であることは間違いないものの、これを行うに当たっては、上記③に述べた問題が方法論上の制約となっていることに留意する必要があります。問題は、この方法論上の制約をどの程度深刻な問題と捉えるかですが、この点については、(x)この問題はとりあえず無視してよい(無視する思考法こそが最も目的合理的である)という考え方から、(y)これは致命的な問題であるから、金銭的福利概念を用いるにあたっては、金銭の限界効用の違いからくる評価上の誤差を修正する試みを決して怠ってはならないという考え方までの間で、論者によってさまざまな考え方があり得るところです。私は、かつては(y)に近い考え方をしていましたが、現在は(x)の見解に近い考え方をしています。その理由は次の通りです。
- 「金銭的効用概念を修正する試み」と口で言うのは簡単ですが、具体的にどのような方法が存在するというのでしょうか。まず、システマティックな修正方法がないことは明らかでしょう。なぜならば、(貨幣に代わるニュメレールが考案される時代が到来すれば格別、そうでない限り)金銭の価値を金銭以外の単位を用いて換算しなおすことは考え難いからです。
- もっとも、金銭の限界効用の変化をあらわす関数を措定することは可能であり(そのような関数としてもっとも有名なものがフォンノイマン・モルゲンシュテルン効用関数であることはご存じの方も多いでしょう)、措定された関数を用いて関係当事者における金銭の限界効用を算定し、その値を用いて、対象財の限界効用を評価し直すことは理論上可能であるかもしれません。しかしながら、金銭の価値は誰にとっても等しいという考え方は、市場経済が円滑に機能させることを前提条件として構築されている現代社会の法体系にビルドインされた思考形式であり、この点を明示的に否定することは、市場社会の規範体系に対して自己破壊的な効果をもたらすように思えます。例えば、金銭の借主が貸主に比べて貧しいとすれば、金銭の限界効用は借主の方が貸主より高く、しかりとすれば、借主の借入額と貸主の貸付額を対等額において減少させることは社会の福利の総和を増大させる可能性が高いと言えるかもしれません。しかし、だからと言って、この点を、借主が返済すべき金額を減額することの根拠とはなし得ず、同様に、既に支払った金額を貸主の「不当利得」であると主張する根拠ともなし得ない(単に現行法の解釈としてなし得ないばかりでなく、そのような主張を認めることは市場経済における人間の行動原理、すなわち、市場原理を破壊するものである)ことは自明と言えるのではないでしょうか(鎌倉時代の為政者が、御家人の借金を帳消しにすることが社会正義にかなう〈当時の言葉で言えば、「徳政」にあたる〉と考えることができたのは、当時の社会が市場経済が成立する以前の社会であったからではないでしょうか)。
- ただし、金銭的福利概念に依拠した福利最大化論を用いると非常識な結論に至る場合については別段の配慮が必要でしょう。しかし、そのような場合に関しては、「権利濫用法理」や、もっと一般的に、「正義・公平の原則」などの伝統的な法理を使って事例判決を下すことが可能であり、ことさらに金銭的福利概念の修正を法理として述べる必要はないでしょう。この点を法理として述べることには、人々の行動にモラルハザードなどの悪影響を与える恐れがあるように思えます。
- 以上を要するに、金銭的福利概念に修正を加える営みを不要と考える理由は、(1)信頼するに足る修正方法の欠如と(2)市場経済における人間の行動原理、すなわち市場原理を保全する必要性に求められます。このうちの(2)について敷衍すれば、市場原理を保全することは社会の福利を最大化するうえで決定的に重要です。以下、その理由を詳らかにいたします。
- 厚生経済学の基本定理(ワルラス均衡の存在定理を含む)は、人類が発見したもっとも偉大な真理の一つです。まず、ワルラス均衡の存在定理によれば、多数の財と多数の消費者と多数の企業から成る社会において、所与の価格体系の下で、各消費者が効用の最大化を目的として行動し、各企業が利潤の最大化を目的して行動すれば、一定の価格体系の下において、すべての財に関する社会全体の需要と供給がすべて一致します(この状態を「ワルラス均衡」と言います)。
- 次に、厚生経済学の第一基本定理よれば、ワルラス均衡は、すべての消費者にとって個人合理的で、かつ、パレート効率的な資源配分をもたらします。ここで、「すべての消費者にとって個人合理的」とは、いかなる消費者の効用も市場取引を通じて低下することはないということであり(これは、ある意味当然なことです)、パレート効率的とは(こちらの方は非常に重要です)、いずれかの消費者の効用を低下させない限り、もはや何人の効用も改善できない状態にあることを意味します。福利の最大化という視点で考えた場合、パレート効率的な社会は、そうでない社会に比べて、明らかに望ましい社会と言えるでしょう。
- ただし、パレート効率的な社会がつねに最善の社会であるとは言えません。なぜならば、資源の初期配分が一定の消費者に偏っている限り、いくら市場での取引を繰り返しても、偏りは一定程度しか是正されないからです。消費者の資産の総量が増えれば、追加の財がもたらす限界効用は逓減することを考えると、この帰結は福利の最大化に対する重大な制約要因であると言わざるを得ません。しかるに、厚生経済核の第二基本定理はこの問題を克服する方途を示唆しています。すなわち、この定理によれば、租税や補助金(=マイナスの租税)を消費者に課すことによって消費者間における資源の配分状況に変更を加えれば、パレート効率的ないかなる資産の配分状況も実現可能となるからです(但し、税や補助金が各消費者の経済行動を攪乱させないことがその前提条件です)。このことは、政府が税や補助金を適正に用いれば、社会全体のパイを減らすことなく、国民各位の資産格差を是正することが(少なくとも理論上は)可能であることを示唆しています。
【おわりに ― 司法における福利最大化の追求】
以上の考察を踏まえて言えば、格差の是正の問題は立法府と行政府の施策に委ねたうえで、司法の世界においては、専ら金銭的福利概念を用いて福利の最大化を追求する(その結果が非常識なものとなる場合には、権利濫用の法理や正義・公平の原則によって是正を図る)ことが最も目的合理的な国家統治のあり方と言えるのではないでしょうか。
ちなみに、金銭的福利概念が福利最大化原理にもたらすひずみを立法府や行政府のイニシアティブによって是正する手立ては税と補助金に限られるわけではありません。例えば、少年少女に絶大な人気を誇るアーティストのコンサートチケットの販売を例に挙げて考えてみましょう。金銭的福利概念を使って考えれば、チケットの販売方法を全くの自由とし、営業目的で行う転売も市場原理に委ねることが福利の最大化を達成する最善の方法であることは明らかでしょう。ただし、そうすれば、(おそらくは親のお金で)高額の対価を支払う用意のあるファンが優先的にチケットを入手することになるでしょう。しかしながら、コンサートを聞いてそのような少年少女が味わう効用が、チケットを買えない貧しいファンが味わい得る効用よりも大きいと言えるでしょうか。この場合においては、チケットの販売方法は先着順としたうえで(この場合、「最も熱心な」ファンから順次チケットを入手できる可能性が高いと言えるでしょう)、営業目的でチケットを転売することも禁止する立法措置をとることによって社会全体の効用が増大する可能性は十分あるように思えます。ただし、この方法をとることは、ほぼ確実に主催者側の利益を減少させることにつながりますので、それを知ったアーティストは公演を見合わせるかもしれません。そうなれば、このコンサートが社会にもたらす福利は消滅してしまうことを立法者は知悉していなければなりません。
今回は、かなり抽象的な話が続いてしまいました。次回からは、集計主義の各論的問題を具体的な事例を挙げながらお話ししていきたいと思います。