コラム
普仏戦争と日清戦争その3
ビスマルクとの対話③
私:では、戦争の話を始めましょう。
ビスマルク:それは構わんが、戦争は、それにかかわる多くの者に対して、勝敗の帰趨にかかわらず、悲惨な結果をもたらすものであることはわかっておるのだろうな。
私:もちろん分かっています。と言うか、私が生きている21世紀初めの日本では、戦争はほとんど絶対悪だと思われています。しかし、人類の歴史を振り返ると、時代の流れを変えた出来事(「game changer」と言ってもよいでしょう)はほとんど常に戦争です。ですから、いかなる時代においても、為政者たらんとする者や、為政者に助言を与え、あるいは、その行動を批判せんとするものは戦争の歴史を学ぶ必要があります。そして、閣下ほど自分の政治信条を実現するために戦争という手段を有効に用い得た人は、世界の近代史においてほかにいないと思います。
ビスマルク:相変わらず君は人をおだてるのがうまいのう。では、最初に一つ問題を出そう。今世紀(19世紀)の初め、つまり我が国がティルジットの屈辱をなめさせられた当時はフランスが圧倒的な軍事大国であったことは前に話したとおりじゃが、当時のフランスはなぜあれほどに強かったと思うかね。
私:理由は二つあると思います。一つは、フランスが世界で初めて「国民から成る軍隊」を作り出したこと。もう一つは、ナポレオンというカリスマ的将軍がいたことです。
ビスマルク:そうだ。最初の点について言えば、それ以前の軍隊というものは傭兵、つまり金儲けのために戦をする者たちが軍隊の主流であった。
私:傭兵では駄目ですか。
ビスマルク:駄目とは言わんが、傭兵は死を恐れる傾向がある。彼らの目的が金儲けにある以上、それは当然であろう。だから、傭兵はリスクの高い戦を好まない。その結果、傭兵中心の軍隊は守りには強いが攻めには弱い軍隊となりがちなのじゃ(要塞の攻防戦では、要塞が陥落しない限り、攻める側の方が、圧倒的に死傷率が高いことは君も知っておろうな)。これに対して、国民からの志願兵で作った軍隊は死を恐れない(そして志願兵のエートスは必ずや徴収兵にも伝わる)。彼らが戦争に加わった主たる動機が愛国心にある以上、それは当然と言えるであろう(もちろん、吾輩はそういう国民の精神に賛辞を惜しむつもりはないぞ)。だから彼らの軍隊には恐れを知らない勇戦が期待できるというわけじゃ。そのうえ、兵の補充も容易である。フランスのような大国の場合、国民はある意味無尽蔵にいるから、5万人死んだら直ちにまた別の5万人を集めることができる(これは、モスクワ遠征が失敗に終わった直後のナポレオンが実際に成し遂げたことじゃ)。
私:でも、そんなに兵隊を殺していたら、いくら愛国心が強い国民でもやる気をなくしてしまうのではないですか。
ビスマルク:そこで必要となるのがカリスマ的な将軍の存在じゃ。そして、ナポレオンは完璧にこの必要性を満たす存在であった。ナポレオンのカリスマ性を示す逸話には事欠かないが、二つだけ教えて進ぜよう。一つ目。ナポレオンは、ある戦で兵隊たちに渡河作戦を命じた。ところが、その河の流れは予想外に速く、最初に渡河に挑んだ兵隊たちは激流に飲み込まれてしまった(そして、その大半は、おそらく溺死したに違いない)。すると、それを見ていた後続の兵隊たちは、我先にと河に突き進んでいったという。ナポレオンの眼前で死をも恐れぬ勇敢な行動に出ることに、兵隊たちは陶酔していたとしか考えられん。もうひとつ。これは、ナポレオン軍が、モスクワへの進軍を続けていた途中でロシアの伏兵に遭遇した時の話じゃ。この時、多数のフランス軍兵士がロシアの砲撃で体の一部を失った(例えば、片手がちぎれた)のじゃが、その中の少なからぬ者たちが、応急手当を済ませると(強要されてもいないのに)陸続と戦場に戻っていった。周囲の者が心配して「痛くないのか」と尋ねると、皆、異口同音に「全然痛くない」と答えたそうだ。恐ろしい話だと思わんかね。
私:ストライキやデモが大好きな21世紀のフランス人からはとても想像もできませんね。吉本隆明に「共同幻想論」という名著がありますが、黎明期の国民国家が生み出す共同幻想には恐るべきものがあるようですね(ちなみに、日露戦争で旅順要塞の攻略に挑んだ日本陸軍や、朝鮮戦争の中盤戦で、国連軍の鴨緑江渡河を阻止すべく参戦した「中国義勇軍」にも似たような行動をとる兵士たちがいたという話を聞いたことがあります)。
ビスマルク:ふうむ。しかし、いくらナショナリズムの旺盛な軍隊でも、その力を十分に引き出すためには、カリスマ性のある将軍が必要であろう。やはり、ナポレオンは敵ながらにあっぱれな武将であったというほかあるまい。
私:そうですね。でも、そのナポレオンも、モスクワ遠征での敗北以降はライプツイッヒ(1813年)でもワーテルロー(1815年)でも勝てなかったのはなぜでしょうか。
ビスマルク:そこがポイントじゃ。なぜ勝てなくなったのか。それは、戦いの規模が大きくなりすぎてしまったからであろう。ちなみに、今君が挙げた二つの戦でも、ナポレオンが直接指揮した戦場ではフランス軍が勝っている。圧勝していると言っても過言ではない。しかし、一人の指揮官が采配を振るえる戦というのはせいぜい数千人同士の戦までであって、数万人同士が激突する会戦の場合は勝手が違う。その規模の戦を一人の指揮官のカリスマ性に委ねることは不可能なのじゃ。その点を看過したことがフランス軍の没落の始まりであったと言えるであろう。
私:わかりました。そして、その点に目を向けて新しい軍事理論を作り出したのが天才クラウゼヴィッツというわけですね。
ビスマルク:まあ、そうじゃが、我がプロイセンの無敵陸軍を作り上げたのは、クラウゼヴィッツ一人の功績ではないぞ。シャルンホルスト、グナイゼナウ、ボイエン、グロルマンそしてクラウゼヴィッツと続く偉大な軍人たちの連綿たる努力によってプロイセン陸軍は再建されたのじゃ。どうも歴史家たちはクラウゼヴィッツ一人を評価し過ぎではないかな。
私:そうかもしれませんが、「戦争論」という大著を書き上げて軍事を哲学の高みに押し上げたクラウゼヴィッツの業績はドイツ文化の精華と言えるのではないですか。ちなみに、我が国においても、「戦争論」は陸軍軍人(軍医)であった森鴎外の訳を通して明治の高級将校たちの知るところとなり、日本陸軍の「ドイツ贔屓」を加速させました(さらに言えば、同書は、LMBコラムニストである水島敦先生の座右の書ともなっています。LMB第5号参照)。
ビスマルク:たしかに、理論面における彼の功績を認めることにはわしもやぶさかではない。彼のおかげで、プロイセン陸軍は、戦争目的(政略)・戦略・戦術という多次元の行動原理を体系的・選択的に用いる目的合理的な組織に生まれ変わったと言えるであろう。そして、それを支える制度として、君の好きな「参謀本部」体制も確立されたというわけだ。この結果、プロイセン陸軍は、現場で軍隊を統帥する将校たちのカリスマ性に依存する必要のない、さらに言えば、戦争目的を達成するためにやむを得ない場合以外には、敵にも味方にも出血を強要しない、「理性的」な軍隊となることができた。ちなみに、参謀本部体制の下では、参謀総長は、首相を介することなく、統帥権者である国王に直接意見具申を行ってその判断を仰ぐことが許されており(この権限を「帷幄上奏権」という)、参謀総長の命令は、師団長や連隊長を介することなく、師団参謀長や連隊付参謀に直接下達される。
私:その体制は、①軍部が内政や外交に口を出さないことと、②最高権力者が英邁な人物であることと、③軍部が最高権力者の判断には必ず従うことの三点が満たされる限りにおいては、たしかに優れたシステムですね。残念ながら、日本の場合には、「統帥権の独立」という名のもとにそのシステムが独り歩きをしてしまって軍部の独走を許しましたが、ドイツの軍部は、歴史上つねに「非政治的」でしたし、最高権力者の判断にも忠実であったと思います。ただし、20世紀のドイツは、最悪の人物が最高権力者となってしまったために、恐るべき災いを、世界に、しかも二回にわたって、もたらす結果となってしまいましたが。
ビスマルク:その話はショックじゃのう。まして、君の言う「最悪の人物」に今上陛下(ヴィルヘルム1世)の孫(ヴィルヘルム2世)が含まれるとしたら実に慨嘆に堪えぬ。まあ、そのことは聞かなかったことにして、話を先に進めることにしよう。要するに、私がプロイセンの首相となった頃までには、プロイセン陸軍は世界で最強の軍隊となっておった。そのことに、オーストリアやフランスは気が付いていなかったようじゃが、それこそが千載一遇のチャンスというものであって、吾輩は、この認識の差を奇貨としてドイツの統一を推し進めていくことができると思った。そう思えたからこそ首相の地位を引き受けたと言っても過言ではない。
私:首相就任時(1862年)に閣下が国会で行った「鉄血演説」(ウィーン条約によって定められたプロイセンの国境は健全な国家の営みにとって好ましいものではないが、この問題は、〈演説や多数決によってではなく〉「鉄と血」によってしか解決し得ないという趣旨の演説)は、そういうお考えが背景にあったからこそ言えたものなのですね。
ビスマルク:その通りじゃ。
私:では、ここからは、私が閣下の足跡をかいつまんで話してまいりましょう。閣下はお好きなタイミングでお好きなだけコメントしてください。
ビスマルク:わかった。どんどん進めてくれ。
私:閣下が首相に就任された当時のプロイセンは重大な内政問題を抱えていました。軍制改革論争に端を発した国王と議会の対立が長引いて予算成立のめどが立たなくなっていたのです。困ったことに、当時のプロイセン憲法は、国王(政府)、上院、下院の三者の合意を予算成立の条件とする一方で、この合意が得られない場合にどうするかを定めた規定を欠いていました(ちなみに、この点を教訓として、1889年に成立した大日本帝国憲法は、「帝国議会において予算を議定せず又は予算成立に至らざるときは政府は前年度の予算を施行すべし」と定めました〈同憲法71条〉)。閣下をあまりお好きではなかったアウグスタ王妃の反対を押し切って国王が閣下を首相に任命されたのは、この難局を閣下の剛腕で乗り切ってほしいという願いを込めてのものであったのではないでしょうか。
ビスマルク:君は言いにくいことをはっきりと言うのう。しかし、確かに、陛下はそのように期待されておったと思う。ただし、わしはその期待にただちに応えることはできなかった。
私:そのようですね。と言うか、鉄血演説を始めとする閣下の強気な姿勢はかえって議会の反発を買ってしまったようです。政府と議会の対立は泥沼化し、遂に閣下は、予算の成立を得ないままに財政支出を続けるという「禁断の措置」をとるに至りました。
ビスマルク:憲法に対処規定がないのだからしょうがなかろう。予算がないからと言って政府の活動を止めるわけにはいかないのじゃ。
私:それはそうでしょうが、「違憲状態の恒常化」という評価は免れません。私如きものでしたら、この時点で神経をやられてしまって引責辞任してしまうと思うのですが、閣下は平然として首相の職務を続けられました。
ビスマルク:別に「平然」としていたわけではないぞ。しかし、わしと議会との対立は、表面上はともかく実質的にはそんなに深刻なものではないとは思っておった。なぜならば、議会の多数派を占める自由主義者たちは、ドイツ統一の完遂を以て国政上の悲願と考える点において私と意見が一致していたからじゃ。従って、この悲願の達成を進める機会が到来しさえすれば、早晩、我々は理解し協力し合えると思っておった。そして、その機会は、首相就任から1年後に早くもやってきた。
私:デンマーク戦争の勃発ですね。では、私が同戦争の経緯を説明いたしましょう。ユトランド半島の南端にシュレスヴィヒとホルシュタインという二つの公国がありました。この両国の住民の大半はドイツ人でしたが、両国は当時デンマークと同君連合の関係にあったことから、支配を強めようとするデンマーク(及びこれを支持する少数のデンマーク系住民)とこれに反発するドイツ系住民(及びこれを支持するドイツ連邦諸邦国)との間に緊張関係が続いていました。しかるところ、1863年2月に即位したデンマークの新国王クリスティアン9世がシュレスヴィヒ公国のデンマークへの併合を一方的に宣言したために両勢力間の対立は一挙に高まります。これを絶好の政治的好機と捉えた閣下はオーストリアと共同してデンマークに宣戦布告をします。かくして戦争が始まったわけですが、1864年2月にシュレスヴィヒに攻め込んだプロイセン軍は新任の参謀総長モルトケの活躍などもあってデンマーク軍に圧勝し、同年7月には早くもデンマーク側から講和の申し出がなされるに至りました。そして、関係国は10月にウィーンで講和条約を締結し、シュレスヴィヒとホルシュタインはプロイセンとオーストリアの共同統治下に置かれることになりました(その後、両国は新たな条約を締結し〈1865年8月のガスタイン条約〉、統治方法を、北のシュレスヴィヒはプロイセンが管理し、南のホルシュタインはオーストリアが管理するという分割統治方式に改めました)。この間における閣下の外交政治手腕は見事というほかありません。特に、①イギリスやフランスの干渉を招かないように諸策を講じたこと(その詳細は割愛します)、②仇敵ながら未だドイツ連邦の盟主の地位にあるオーストリアを同盟国とすることによって戦争の帰趨をあらかじめ確固たるものにしたこと、③シュレスヴィヒとホルシュタインの戦後処理をプロイセンとオーストリアの共同統治というやや曖昧な関係に留めおくことによって、いかなる勢力からも強い反発が生まれないように配慮しつつ、プロイセンとオーストリアの間で将来新たな紛争が生まれる火種を植え付けたことは瞠目に値します。さらに言えば、この戦争の結果、閣下と国内のナショナリストたちとの間の宥和も進み、議会運営の困難さもかなり緩和されたようにお見受けします(ちなみに、デンマーク戦争での功績により閣下は世襲の伯爵にも叙せられました)。
ビスマルク:まあ、そういうことじゃ。一点付け加えると、デンマークをユトランド半島の北半分に封じ込めたことによって、プロイセンの地政学上の優位性を高めた(正確に言えば、「劣位性を薄めた」)こともデンマーク戦争の意義の一つとして評価してもらえると嬉しいのう。北方の脅威がなくなったことによって、我がプロイセンは南の敵に集中できるようになったのだから。
私:いよいよ、普墺戦争の開幕というわけですね。
ビスマルク:そういうわけじゃ。デンマーク戦争とその戦後処理の様子を目の当たりにして、ドイツの進むべき道は二つに一つしかないことがドイツ連邦諸邦国の為政者たちにも見えてきたのではあるまいか。すなわち、現状の緩やかな連合体制を維持するか(その場合は、各国が独自に採用する貿易政策や産業政策も維持されるであろう)、あるいは、オーストリアを排除した、つまり、小ドイツ主義の立場に立った、プロイセンを盟主とする統一国家を設立するか(その場合は、各国間の貿易政策や産業政策の不一致はすべて解消されるであろう)のいずれの道しかないということである。この問題に決着をつけるためにはドイツ連邦を二つに割った大戦(おおいくさ)をするしかないないと確信した吾輩は、その戦機が熟するのを待っておった(もちろん、その間において、フランスからは、好意的中立を守る約束を取り付け、イタリアからは、戦後オーストリアにヴェネツィアを割譲させることの見返りとして対オーストリア戦に参戦する約束を取り付けることも忘れなかった)。そして、1866年6月、北ドイツの19の諸邦国と共にドイツ連邦を脱退し、オーストリアとの戦争状態に突入したというわけだ。
私:オーストリアが結成した「連邦軍」に、バイエルン、ザクセン、ヴュルテンベルク、ハノーファー、ヘッセン=カッセルなどの有力諸邦国が加わったことは誤算ではありませんでしたか。
ビスマルク:なんの、なんの。それこそ吾輩が望んでいたことじゃ。「鉄と血」によってドイツの統一を成し遂げるためには敵を炙り出す必要がある。今、君が名を挙げた国は、いずれも、因習にとらわれるあまり、時代の流れが見えない愚かな為政者が牛耳る国じゃ。そんな国が束になってかかってきても、今や無敵とも言えるプロイセン軍の敵ではない。唯一の問題は、いかにして圧倒的な勝利を得るか、であった。
私:普墺戦争におけるプロイセン軍の戦いぶりは見事というほかありません。かねてより参謀総長モルトケの下で、鉄道と電信と砲兵隊を駆使する戦略と戦術を練っていたプロイセン軍は、神速を以て、ハノーファー、ヘッセン=カッセル、バイエルンの各軍を各個撃破し、開戦から約半月後の1866年7月3日、ケーニヒグレーツ(現在のチェコ、フラデツ・クラーロヴェー)でオーストリア・ザクセン連合軍21万5千を包囲殲滅して同軍に壊滅的な打撃を与えました(同軍の死傷者3万、捕虜1万3千、22万人のプロイセン軍における死傷者は1万)。オーストリア軍は戦意を喪失してウィーンに敗走し、参謀総長のモルトケ閣下はこれを追ってウィーンに攻め入ることを進言しましたが、閣下はこれに反対なさいました。
ビスマルク:別にそれほど強く反対したわけではないぞ。ただ、かつてナポレオンに我がプロイセンの首都ベルリンへの進軍を許し城下の盟を結ばされた時の屈辱感(その1参照)が頭にあったので、ウィーン入城にはどうも気が進まなかったのじゃ。そうこうするうちに、公平な仲裁者を気取ったフランスのナポレオン3世が、休戦・講和の斡旋を申し入れてきたので、彼に花を持たせるべくこれに応じたというわけじゃ。
私:それにしても、この時の講和はオーストリアに対して寛大なものでしたね。長年にわたりプロイセンの覇権の拡大を妨げてきた張本人たる国が全面戦争で惨敗したというのに、領土の喪失は(ヴェネツィアのイタリアへの割譲を除いては)全くなかったのですから。
ビスマルク:クラウゼヴィッツは、「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」と説いた。今回の戦争の目的は、「プロイセンの覇権の下でドイツを統一すること」であった。この目的がほぼ達成できる目途が立った以上それで十分ではないか。敗戦国に対して不必要なダメージを与えることは理性の政治家である吾輩の望むところではない。
私:恐れ入ります。確かに、普墺戦争の結果、プロイセンは、「プロイセンを盟主と仰ぐドイツの民族国家の形成」という戦争目的をほとんど完全に達成できました。第一に、シュレスヴィヒ、ホルシュタイン、ハノーファー、ヘッセン=カッセル、ナッサウなどの諸邦国は全てプロイセンに併合されました。第二に、オーストリアと南ドイツの4王国を除くすべてのドイツ諸邦国はプロイセン国王ヴィルヘルム1世を連邦主席、閣下を連邦宰相とする「北ドイツ連邦」という新しい連邦国家に生まれ変わりました。北ドイツは連邦には連邦主席と連邦宰相を頂点とする行政府の他に普通選挙によって選出された議員から成る連邦国会もあり、「連邦法は邦国法に優先する」という原則も確立されました。第三に、南ドイツの4王国も北ドイツ連邦との間で関税同盟と攻守軍事同盟を結ぶに至り、北ドイツ連邦との協調体制という制約の下でかろうじて主権国家の体面を保持できるだけの存在となりました。第四に、敗れたオーストリアは、統一ドイツへの参加を半永久的に断念したかの如く、1867年にはオーストリア=ハンガリー二重帝国に改編されて多民族国家の道を歩むことになりました。さらに、以上の輝かしい業績により、内政面における閣下のお立場も大変強固なものとなりました。すなわち、ドイツナショナリズムの旗手としての閣下の実力を認めたドイツの自由主義者たちは、国民自由党を結成して閣下の諸施策を擁護するようになりました。長年の懸案であった、「予算なしの財政支出」という憲法上の問題も「事後承諾法」がプロイセンの国会で可決されることにより解決されました。
ビスマルク:まあ、そういうわけじゃ。ただし、これで万事解決とは言えないことは君も分かっていような。
私:南ドイツ4国の処遇とフランスとの関係が問題だったのですね。
ビスマルク:そうじゃ。まず、南ドイツ4国じゃが、これらの国は何といってもドイツ民族の国なのだから、これを統合しなくてはドイツ民族の統一国家が完成したとは言えん。加えて、この4国は広い国土と多くの人口と豊かな農業生産力を持っている。この4国が加わることによってはじめてドイツは、ヨーロッパで最大の国土と最多の人口と最大の経済力(現代の用語で言えば、最大のGDP)を持った国となることができるのじゃ。ただし、この4国はいずれも伝統と格式を誇る王家の支配下にあり、これらの王家の者たちは、内心では、プロイセンのホーエンツォレルン王家を成り上がり者と蔑んでいよう。そのうえ、カトリックの多い住民たちもプロテスタントの多い北ドイツ連邦に吸収されることを強くは望んでおらぬ。だから、この4国を統合することはそう簡単な話ではないのだ。
私:なるほど。で、フランスの方はどうなのですか。歴史を振り返って考えれば、これ以上フランスとは戦わず、むしろ、同国とはヨーロッパ最強の同盟関係を結ぶことができたらドイツにとってもフランスにとってもその方がずっと良かったと思うのですが。
ビスマルク:ふむ。20世紀の歴史を君から聞かせてもらった身としては、その考え方にも一理あると言うべきかもしれぬ。しかし、それは、やはり後知恵(hindsight)というものであろう。先ほど、君は、吉本某という思想家の「共同幻想」という概念を引用しつつ「黎明期の国民主義には恐るべきものがある」と言ったが、1860年代から70年代にかけての(つまり、「現在の」)ヨーロッパはまさに国民主義、つまりナショナリズムの風が吹き荒れている時代であり、私自身も、その風に乗ってここまでの成果を積み上げてきた。そうである以上、領土問題がないのであれば格別、深刻な領土問題が独仏間にある限り、フランスと友好関係を築くことはできぬ相談というものじゃ。
私:フランスとの間に未解決の領土問題があったのですか。
ビスマルク:そういえば、これまでその話をする機会がなかったのう。領土問題は大ありで、しかも二つも存在した。一つは、ライン川左岸地帯と呼ばれる土地で、昔からドイツ連邦内の地域なのだが、フランスは、ルイ14世の時代からライン川をもってドイツとフランスの国境としたがっており(自然国境論)、ナポレオンが一旦は取得し、その後1815年のウィーン条約で喪失したこの地域を再び獲得することを虎視眈々と狙っておった。しかも、オーストリアは普墺戦争の開始に当たってこの地域をフランスに割譲してもよいと約束したらしく、ナポレオン3世は、「何時になったら譲ってもらえるのか」という態度を再三見せてきよった(ちなみに、彼は、普墺戦争に好意的中立を守ることの見返りとして、私からもそのような言質を取ったつもりでいたようだが、むろん吾輩はそんな約束はしていないし、少なくとも吾輩がそのようなことを言った証拠は何も残っていない。この点は、ナポレオン3世の外交能力の未熟さの表れというべきであろう)。
私:もう一つの領土問題とは何ですか。
ビスマルク:今話したライン川左岸地帯の南に「アルザス・ロレーヌ」と呼ばれる土地がある(この名称はフランス語〈 Alsace-Lorraine〉であって、正しくはドイツ語でエルザス・ロートリンゲン〈 Elsaß-Lothringen〉と呼ぶべきだが、21世紀の日本の読者の皆さんが分かりやすいように、ここではフランス語を使うことにしよう)。アルザス・ロレーヌは形式的にはフランス領土であるが、住民の大半はドイツ系住民で、話す言葉もドイツ語であるうえに、次第に多くの住民がライン川左岸のドイツ工業地帯に通って生計を立て始めている。従って、ドイツ民族国家を樹立する以上はこの地域もフランスから奪還したいと考えておったのじゃ。
私:なるほど。領土問題に双方が満足のいくような決着をつけることは至難の業のようですね。でも、そのアルザス・ロレーヌ問題は私もかねてから不思議に思っていました。と言いますのは、フランスの作家アルフォンス・ドーデが1873年に出版した本に『最後の授業』という短編小説があるのですが、そこには、アルザス地方の語学教師がフランス語を「国語」として教えているにもかかわらず、生徒たちはフランス語を外国語として学んでいるとしか考えられない記述があるからです。
ビスマルク:そういうわけじゃ。結局のところ、フランスとの領土問題を解決するにはやはり同国と干戈を交えなければならぬ。しかし、フランスは今でも侮りがたい軍事大国であって(少なくとも私はそうであると思っていた)、オーストリアのように簡単に屈服させることのできる国ではない。よもや、ドイツが負けることはなかろうが、戦争が長引けば、建設途上のドイツ産業にとっての痛手は大きいし、吾輩の政治力も低下を免れまい。ただし、外交の天才である吾輩には、ここで一つ閃くものがあった。南ドイツ4国問題とフランス問題を同時に解決する妙案を思いついたのじゃ。どういうことか君に分かるかな。ヒントは、やはり、ナショナリズムである。
私:勉強をもって趣味とする私にはおおむね想像がつきますが、ここは、一つ、閣下の口から語っていただきたいです。
ビスマルク:よかろう。妙案とは、「仏独双方の敵愾心を煽る」というものじゃ。さすれば、フランス国民のナショナリズムに押されたナポレオン3世は、十分な準備もないままドイツに宣戦布告し、自らがナポレオン1世の再来であることを示すべく、進んで戦場に赴いて決死の行動に出る公算が高い。このフランス軍を叩けば、短期間のうちにフランスを屈服させることができるのではあるまいか。
私:ナポレオン3世がそんなに軽率な行動に出るでしょうか。
ビスマルク:わしはそう読んだ。確かに、ナポレオン3世は一部の歴史家が言うほど無能な政治家ではない。ただし、彼は伯父であるナポレオン1世の威光を最大限に利用して皇帝に成り上がった人物であり、そこに彼の弱みの源泉がある。彼は、自分が伯父に匹敵する軍事と外交の天才であることを国民に示し続けなければならぬという「宿命」を背負わされているのじゃ。1852年に皇帝に就任して以降のナポレオン3世は、この宿命を比較的よく果たしてきた(アルジェリアの征服、中国に対する英仏合同遠征〈アロー号事件〉、クリミア戦争での勝利、イタリアからサヴォイとニースの割譲を受けたことなど)。しかしながら、1862年に始まり1867年に終わったメキシコ遠征は、莫大な人命と膨大な戦費を費やしたフランスに何らの利益ももたらさず、これによってナポレオン3世の権威は大幅に失墜してしまった。今のナポレオン3世には、ドイツに対して弱腰の姿勢を示す「ゆとり」はない。そう私は考えたのだ。
私:なるほど。カール・マルクスは、「歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇(茶番)として」と言って、ナポレオン3世の振る舞いを茶化しましたが、ある意味では彼こそが悲劇の主人公であったのかもしれませんね。
ビスマルク:わしもそう思う。ところで、フランスとドイツの敵愾心を煽ることがどうして南ドイツ4国問題の解決にもつながるか分かるかね。
私:はい。4国といえどもドイツ民族のナショナリズムに煽られれば、対仏戦争においては必ずや北ドイツ連邦の同盟国として参戦するでしょう。彼らの参戦は対仏戦争の勝利をさらに確実なものにするでしょうし、さらに、勝利の歓喜に沸くドイツ国民を目のあたりにすれば、4国の国王たちも、もはや「ドイツ帝国」への編入を拒むことはできないでしょう。
ビスマルク:まさに、それが私の読み筋であった。問題は、どうやって独仏両国民の敵愾心を煽るかである。いくつかの案を試みたが、ここでは、結果的にうまくいった「エムス電報事件」について話すことにしよう。
私:では、閣下が参画するまでの顛末を私が話しましょう。スペインでは、1868年に立憲革命が起こってブルボン朝の国王が亡命してしまったために、新しい国王を即位させる必要に迫られていました。そこで白羽の矢が立ったのがホーエンツォレルン家の分家の王子レオポルドであり、一時は彼が新スペイン国王となることで話がまとまりかけていました。しかし、1870年7月、この話を聞きつけたナポレオン3世はレオポルドの国王就任を断固阻止することを決意します。彼にすれば、カール5世以来の伝統と格式を誇るスペインの王座に新参者であるプロイセン王家の者が就くこと、しかも、それによって、フランスがプロイセン王家を戴く二国に挟まれること、は耐えがたい事態であると思ったのでしょう。そこで、彼はプロイセン政府を難詰し、あわせて、フランス国民の対ドイツ戦争熱を煽り立てました。事態の深刻さを知ったレオポルドは国王就任を辞退しましたが、怒りの収まらないナポレオン3世は。ドイツ駐箚フランス大使のベネデッティ伯を温泉地エムスで静養中のヴィルヘルム1世のもとに遣わし、「レオポルドがスペイン国王となることには今後一切同意しない」と確約するよう求めました。
ビスマルク:そのとおりじゃが、君の眼から見てもナポレオン3世の態度は非礼であると思わんかね。
私:確かに非礼ですし、ゲーム論的感覚で言えば、相手に受諾するインセンティブのない合意を求めること自体が外交センスの欠如を物語っていますね。
ビスマルク:国王陛下もそう感じられたのだと思う。同時に、私とは以心伝心の関係にある国王陛下は、この非礼は「使える」と直感なされたにちがいない。陛下は、ベネデッティ大使の申し出を峻拒し、その日の午後に予定されていた同大使との会見も中止とされたうえで、この顛末と、今後この問題でフランスと対話をする意思はない旨を伝える電報を当時ベルリンにいた吾輩のもとにお送りになられた。そこで、吾輩は、この電報を、記載された事実に一切変更を加えることなく(ただし、フランス側の非礼とそれに対する我が国王陛下の断固たる決意が読者に明確に伝わるように表現を若干改めたうえで)新聞に公表したのじゃ。
私:その結果、フランス国民もドイツ国民も互いに侮辱されたと思って激昂したのですね。
ビスマルク:そうだ。ドイツ側はともかく、非礼を働いたフランス側が怒る論理的理由はあまりないように思うのだが、結果は、そのとおり、両国民の相手国に対する敵愾心は臨界点に達した。そして、フランスは、早くも1870年7月14日には戦争開始の閣議決定を行い、同月17日、我が国に対して宣戦を布告した。もちろん、北ドイツ連邦は直ちにこれに応じ、南ドイツ4国も躊躇せず対仏戦争に加わった。
私:閣下の思惑通りに事が進んだわけですね。
ビスマルク:まあ、そうじゃが、フランス軍は吾輩が想定していたよりもはるかに脆弱であった。今や神の如き威光を帯びたモルトケの率いるドイツ連合軍は8月3日の緒戦で圧勝すると、敗退するフランス軍をメッツ要塞に押し込めてその包囲攻撃を開始した。これに慌てたナポレオン3世は、籠城軍を救出すべく、無謀にも自ら救援軍を率いて前線に乗り出してきた。9月1日、ドイツ軍はこのフランス軍に対してセダン付近で決戦を挑み、翌日には、ナポレオン3世自身を含む8万3千のフランス兵をすべて捕虜にするという、ヨーロッパ史上空前絶後とも言うべき勝利を遂げたのである。
私:これで終われば、閣下の好きな「最短の時間と最小の犠牲のもとに最大の戦果を挙げる」戦争となったでしょうね。
ビスマルク:わしもそれを目論んでおった。なにしろ先方は皇帝を捕虜にされておるのだからな。まともな国なら、少々の条件なら受け入れて和睦を申し込んでくるはずじゃ。ところが、フランス人民は吾輩の想像以上に冷たい人間の集団のようで、なんと彼らは、彼らのために命がけで戦った自らの皇帝を見捨てて新しい政府(第三共和政)を樹立したのじゃ。そして、新政府はアルザス・ロレーヌの割譲を要求するドイツの講和条件を拒み、戦争継続の道を選択したのである。狂気の沙汰であるとは思わんかね。
私:頑張って戦えば勝機が訪れると本気で思っていたのですかね。
ビスマルク:よくわからんが、結局のところ、当時のフランス人の頭には、ナポレオン1世時代の無敵フランス軍の幻影が未だに残っていたのじゃろう。事実、フランス国民の戦意はその後も旺盛で、全国各地で膨大な数の志願兵が動員されて抵抗を試みた。しかし、彼我の軍事力の差はもはや歴然としており、几帳面なモルトケは、これらの抵抗軍をすべて完膚なきまでに叩き潰した。かくして、わが軍は遂にパリの砲撃を開始し、1871年1月末にフランス新政府はドイツの要求をすべて受け入れてパリを開城するに至ったのである。
私:その間にベルサイユ宮殿鏡の間でドイツ皇帝の戴冠式を行っていますね。
ビスマルク:そうだ。それによって、遂にドイツ帝国が成立した。1871年1月18日のことである。
私:いくら何でも、これはやりすぎだったのではないですか。
ビスマルク:しかたがないではないか。 我々は、当時、ベルサイユ宮殿をパリ包囲軍の前線基地にしており、国王陛下のみならず、小うるさい南ドイツ4国の国王たちもそこに常駐していたのだから。
私:でも、後日もっと落ち着いてから、ベルリンあたりで戴冠式を挙行してもよかったのではないでしょうか。
ビスマルク:とんでもない。物事にはすべてタイミングというものがある。事実、この機を逃していたら、ドイツ帝国は成立していなかったかもしれぬぞ。なぜなら、バイエルン国王などは、この期に及んでも、合邦のための条件を吊り上げようとしてくるし、肝心の国王陛下までが、些細なことを理由に、「皇帝になどなりたくない」と駄々をこねる始末で、わしもさじを投げだそうと何度も思ったほどじゃ。
私:そんなご苦労があったのですね。と言うか、戴冠式を描いたアントン・フォン・ヴェルナーの絵の中で閣下だけが沈鬱な表情を浮かべておられるのにはそういう背景があったということですか。
ビスマルク:まあそういうことじゃ。もちろん、今になって考えれば、あの日は、わしにとっても最良の一日であったと言うべきであろう。何といっても、吾輩と大多数のプロイセン臣民の悲願であった「プロイセン国王を皇帝とするドイツ民族の統一国家」が実現したのじゃから。
私:誠におめでとうございます。偉大な功績を挙げられた閣下を亡き母上もさぞや天国でお喜びになっておられることでしょう。ちなみに、閣下は、これまでの功績により世襲の侯爵に叙されるとともに、出来上がったドイツ帝国の「帝国宰相」に就任されましたね。今後のさらなるご活躍を期待しております(ちなみに、ビスマルクは、この後約20年間、ヴィルヘルム1世とともにドイツ帝国に君臨する。その間のドイツは、もはや一度の戦争も行うことなく、(フランスを除く)周辺各国との協調体制の下で繁栄を謳歌し続けた)。
【次号に続く】