コラム

「法律家 名著を読む」

2026.6.19
第2回 『サピエンス全史』(ユヴァル・ノア・ハラリ著/柴田裕之訳)を読む
弁護士 松尾拓也

Ⅰ はじめに

前回、私は、記念すべき読書体験第一号として、リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』を読みました。同書の初版が出版されたのは(私が生まれるより前である)1976年ですが、2026年現在でも大変興味深く読むことができました。これなら読書を続けていけそうだと思い、第1回のコラムの最後では、勢いに任せて、「次回は、「ホモ・サピエンスが文明を築き、世界を制覇したのはなぜか?」を描く世界的ベストセラー、『サピエンス全史』(ユヴァル・ノア・ハラリ著)を読んでみたいと思っています」と宣言しました。

私が『サピエンス全史』を読んでみようと思ったのは、前回、ドーキンスの『利己的な遺伝子』を読んで、利己的な「遺伝子」の機能を凌駕しうる「ミーム」(文化的伝達の単位)の存在に興味を持ち、『サピエンス全史』がこの点に関する新たな示唆を与えてくれそうだと感じたからでした。もっとも、第1回のコラムを執筆した時点では、まだ『サピエンス全史』を読み始めてもいなかったため、本書が上記のような私の興味や期待に応えてくれる内容の書籍なのか、確信はありませんでした。

今回、実際に『サピエンス全史』を読んでみたところ、その内容は期待以上のものでした。

まず、本書においては、「利己的な遺伝子」「ミーム」といった用語やドーキンスへの言及があり、『利己的な遺伝子』の内容に影響を受けたものであろう(と私が勝手に思った)記述も少なからず見られ、天才たちのバトンリレーの一端を垣間見たような興奮を覚えました。

また、『利己的な遺伝子』では、遺伝子(を通じた生物学的進化)とミーム(を通じた文化的進化)を人間が死後に残せる2つのものとして並列的に捉えられているように思われましたが、『サピエンス全史』は、サピエンスがその文化的進化の果てに、生物工学(例えば遺伝子の移植)等によって自然選択(自然淘汰)の法則を打ち破り始めており、21世紀のサピエンスが知的設計の主体となる可能性に言及しています(後記7ご参照)。これは、ミームを通じた「文化的進化」が、遺伝子を通じた「生物学的進化」の方向性すら直接的に支配し始めているとも言いうる状況と思われ、2つの書籍の執筆タイミング(1976年 vs 2011年)の違いによる見立ての差異が現れた部分のようにも感じられ、また、私自身の理解のアップデートにもつながりました。

『利己的な遺伝子』との関連性という点を措くとしても、『サピエンス全史』の内容は非常に面白く、各章ごとに驚きと気づきを与えてくれる素晴らしいものでした。但し、その内容は非常に広範で情報量が多く、重たいため、読み終えたときには「疲れた!」というのが正直な感想でもありました。

今回、本コラムを執筆するにあたっては、『サピエンス全史』の取り扱っている非常に広範な題材と情報をどのように纏めれば、本コラムを有意義なものにできるだろうかと悩みました。その結果、今回は、私自身が最も強く惹かれた「虚構を共有する力」という視点を軸に、本書の内容を私なりに整理して紹介することに重点を置くことにしました。

Ⅱ『サピエンス全史』を読む

1.本書の紹介

(1)世界的ベストセラー

『サピエンス全史』はヘブライ大学の歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリによる書籍で、2011年にヘブライ語版、2014年に英語版、2016年に日本語版が発売された、累計2500万部超のベストセラーです。

日本でも大ヒットした書籍であり、「とうの昔に読んだよ!」という方も少なくないと思われる中、今さらその概要を紹介し、感想を綴るのはやや気恥ずかしく、申し訳なくもありますが、約3か月前、46歳にしてようやく読書を始めたという私の事情に免じて、お許しいただければ幸いです。

なお、ハラリは、『サピエンス全史』の後、『ホモ・デウス』、『21 Lessons』、『NEXUS』という書籍も出版しています。このうち最初の3冊が、ハラリの「サピエンス三部作」などと言われており、それぞれ、主に、サピエンスの過去、未来、現在を扱っているとされています。私としては、『サピエンス全史』以外の3冊も追って読んでみたいと思っています。

(2)本書の中心的テーマ

本書は、人類の誕生以来の歴史を、極めて大きな視点で描いたマクロヒストリー本です。一般的な歴史書のように王朝や戦争を中心に叙述するのではなく、生物学、宗教、経済、哲学、政治、資本主義、科学技術などの知見を横断しながら、「なぜホモ・サピエンスは地球唯一の支配者になれたのか」という問いを中心に展開していく点に特徴があります。

まだ『サピエンス全史』を読んでいない人に、「なぜホモ・サピエンスは地球唯一の支配者になれたと思いますか?」と聞くと、こんな答えが返ってきそうです。

「脳が大きかったから」
「直立二足歩行だったから」
「道具を作る能力が高かったから」
「火を使えたから」
「言葉を話せたから」
「農業を始めたから」
「文明を発展させたから」

どれも一見もっともらしい答えです。

しかし、本書は、上記のいずれの回答も不十分であると教えてくれます。そのうえで、本書は、その答えを
「虚構を共有できたから」
であるとしています。

宗教、貨幣、国家、人権、民主主義、資本主義などはすべて「虚構」(※1)であり、それらを共有する能力こそが、サピエンスを地球唯一の支配者に押し上げたとハラリは主張しているのです(詳細は後記3~5をご覧下さい)。

(※1)人権や民主主義といった概念を「虚構」と呼ぶことには抵抗感を抱く読者もいるのではないでしょうか。ハラリは、「虚構」を、「共有された物語(Shared Story)」、「想像上の秩序(Imagined Order)」、「想像上の現実(Imagined Reality)」とも表現していますが、そういった表現の方が一般には受け入れやすいかもしれません。

なお、ハラリは、人類の歴史の道筋は、約7万年前の「認知革命」、約1万2000年前の「農業革命」、そして約500年前に始まった「科学革命」という3つの重要な革命が決めたと述べていますが、後述するとおり、虚構を共有する能力を手に入れた認知革命こそが、サピエンスにとって最も重要な革命であったと捉えているように思われます。

2.前提としての「人類」の食物連鎖上の立ち位置

(1)「人類」の地球上での立ち位置

本書では、「サピエンス」という言葉は、現生人類であるホモ・サピエンスを指すときに用いられています。これに対し、「人類」という言葉は、ホモ属(ヒト属)に属する動物全般を指すときに用いられています。
「人類」には、ホモ・ネアンデルターレンシス(一般にネアンデルタール人と呼ばれています。)、ホモ・エレクトス、ホモ・ソロエンシス、ホモ・フローレシエンシスなど、多数の「種」が存在していました。我々ホモ・サピエンスもそのうちの1つの「種」に過ぎません。

さて、「なぜホモ・サピエンスは地球唯一の支配者になれたのか」 という問いを考えるに際しては、そもそも「人類」が地球上でどのような立ち位置にあったのかから振り返っておく必要があります。

ハラリは、「人類」が初めて姿を現したのはおよそ250万年前の東アフリカで、約200万年前、この太古の人類の一部が北アフリカ、ヨーロッパ、アジアの広い地域に進出し、各地で異なる方向に進化した結果、いくつかの別個の種が誕生したとしています。

「人類」の様々な種に共通する決定的な特徴としては、大きな脳や直立二足歩行(ひいては道具の製造と使用)といった点が挙げられますが、人類は200万年にわたってこれらの恩恵に浴しながらも、その間、ほぼずっと弱く、地球上の食物連鎖の中ほどに位置付けられ続けていたそうです。したがって、大きな脳や直立二足歩行(ひいては道具の製造と使用)といった点をもって、ホモ・サピエンスが地球を支配する存在になった根拠とすることはできないわけです。

(2)「人類」の飛躍の契機

ハラリは、「人類」が食物連鎖の頂点へと飛躍したのは、約10万年前であるとしています。その飛躍における重大な一歩は、人類の一部の種が約30万年前までに火を手懐けたことであり、その最大の恩恵は、調理が可能になったことだそうです。

調理が可能となったことで、「人類」は以前よりも多くの種類の食物を食べたり、食事にかける時間を減らすことができ、以前よりも短い腸で事足りるようになり、それが脳の巨大化につながったと考えられるそうです。人類の長い腸と大きな脳は、ともに大量のエネルギーを消費するため、両方を維持することは難かったところ、調理によって腸を短くし、そのエネルギー消費量を減らせたことで、その分、脳を巨大化させる道が開けたというのです。

3.認知革命 ~「虚構」を共有する能力の獲得~

(1)他の「人類」種と併存していたサピエンス

ところで、ハラリによれば、約200万年前から1万年前頃まで、地球上には複数の「人類」種が同時に存在しており、我々ホモ・サピエンスも約20万年前に誕生してから長らく、他の「人類」種と併存していたそうです。すなわち、「人類」が食物連鎖の頂点へと飛躍した約10万年前には、我々ホモ・サピエンスも存在していましたが、他の「人類」種も地球上に併存していたということです。例えば、ホモ・ソロエンシスの存在を示す遺跡が途絶えたのは約5万年前、ネアンデルタール人が絶滅したのは約3万年前、ホモ・フローレシエンシスが姿を消したのが約1万3000年前だったとのことです。

(2)サピエンスを地球唯一の支配者に押し上げた能力の獲得

それでは、火を手懐けたことを契機として約10万年前に食物連鎖の頂点に登りつめた「人類」の中で、我々ホモ・サピエンスだけが生き残った秘密は何だったのでしょうか。
(約10万年前にはサピエンス以外の「人類」種も多数存在していたのですから、火を手懐けたことをもって、サピエンスが地球唯一の支配者になれた根拠とすることはできません。)

サピエンスが地球上の様々な場所に侵出して他の「人類」種を絶滅に追い込み始めたのは、約7万年前からで、それまでの数万年間、サピエンスは他の「人類」種に対して、これといった強みを持っていなかったそうです(例えば、ネアンデルタール人は、サピエンスよりも筋肉が発達し、大きな脳を持っており、道具や火も使っていたとされています)。

では、7万年前にいったい何があったのでしょうか。ハラリは、約7万年前から3万年前にかけて見られた、新しい思考と意思疎通の方法の登場のことを「認知革命」と呼んでおり、これによってサピエンスが他の人類種を圧倒するようになっていったとしています。

「認知革命」でサピエンスが獲得したのは、「虚構を語る能力」でした。

この世で初の言語を獲得したのはサピエンスではありません。ミツバチやアリのような昆虫でさえ、複雑なやり方で意思を疎通させる方法を知っており、類人猿やサルを含め、多くの動物が既に口語言語を持っていました(したがって、言語を話せたこと自体をもって、サピエンスが地球唯一の支配者になれた根拠とすることはできません)。しかし、見たことも、触れたことも、匂いを嗅いだこともない、ありとあらゆる種類の存在について話す能力があるのは、サピエンスだけだというのです。伝説や神話、神々、宗教は、この能力の獲得、すなわち認知革命に伴って初めて地球上に現れました。このような「虚構」について語る能力こそが、サピエンスの言語の特徴として異彩を放っているというのです。

脳の大きさや身体的な強さ等ではなく、「虚構を語る能力」こそが、サピエンスを地球唯一の支配者に押し上げたというハラリの洞察は、非常に斬新で、唸らされました。以下では「虚構を語る能力」がいかにしてサピエンスを地球唯一の支配者に押し上げたのかを見ていきたいと思います。

(3)「虚構」を語る能力の効用
① 大規模な協力関係の実現

イギリスの人類学者ロビン・ダンバーは、人間が安定的な社会関係を維持できる人数の認知的な上限は、約150人だと提唱しました。これが有名な「ダンバー数」です。ダンバーは、霊長類の脳の大きさと平均的な群れの大きさとの間に相関関係を見出し、平均的な人間の脳の大きさを計算し、霊長類の結果から推定することによって、人間が円滑に安定して維持できる関係は150人程度であるとしました(ここでいう「関係」とは、ある個人が、各人のことを知っていて、さらに、各人がお互いにどのような関係にあるのかをも知っている、ということを指します)。

ところが、サピエンスは、認知革命によって「虚構を語る能力」を獲得したことにより、上述のような「関係」が成り立たない人々との間でも柔軟に協力関係を築く道を切り開き、150人を遥かに超える人数で協力関係を構築するようになったのです。これにより、サピエンスは、他の「人類」種を含む地球上のあらゆる動物と一線を画する圧倒的な存在になることができたのです。

② ゲノムの迂回

虚構を共有する力の恩恵は、大勢の見知らぬ人々が効果的に協力できるようになったことにとどまりません。虚構は、適切な条件下ではあっという間に変更することができ、それによってサピエンスは必要性の変化に応じて迅速に振る舞いを改めることもできるようになったのです。

例えば、1789年にフランスの人々はほぼ一夜にして王権神授説の神話を信じるのをやめ、国民主権という新たな神話を信じ始め、それによって人々の振る舞いは大きく変化していきました。これは、1789年にフランス人の遺伝子が変わったからではなく、人々が共有する物語が変わったことにより生じた変化でした。このように、認知革命により、サピエンスは、他の社会的動物とは異なり、遺伝子の突然変異なしに、社会的行動の重大な変化を迅速に起こすことができるようになったのです。ハラリはこれを「ゲノムの迂回」と呼んでいます。

地球上のあらゆる生物の中でサピエンスのみが、遺伝子の突然変異なしに、社会的行動の重大な変化を圧倒的なスピードで実現させることができるという点が、他の生物との生存競争において、どれほどサピエンスに有利に働いたかは想像に難くないところではないでしょうか。

4.農業革命

ハラリは、約7万年前の認知革命以降の人間文化の発展を「歴史」と呼んだうえで、歴史の道筋は、約7万年前に歴史を始動させた認知革命、約1万2000年前に歴史の流れを加速させた農業革命、わずか500年前に始まった科学革命という3つの重要な革命が決めたと述べています。

本項では、まず農業革命について述べ、科学革命については後記5で述べることにします。

(1)史上最大の詐欺

人類は約250万年にわたって、植物を採取し、動物を狩って食料としてきました。それが約1万年間に一変し、いくつかの動植物種の生命を操作することに、サピエンスがほぼすべての時間と労力を傾け始めました。このような人間の暮らし方における革命を、「農業革命」といいます。

人類は、農業革命によって手に入る食糧の総量を増加させることに成功し、人口爆発へとつながりました。しかし、ハラリは、農業革命は、史上最大の詐欺であったと主張しています(※2)。ハラリは、農業革命は(たしかに人口の爆発的な増加には寄与したものの)平均的な農耕民により良い食生活や長い余暇を与えることはなく、むしろ狩猟採集民よりも一般に困難で満足度の低い生活を強いることとなったと述べています。

(※2)農業革命は、史上最大の詐欺であったとのハラリの主張は非常にセンセーショナルなものです。ただ、農業革命は、サピエンスという種全体にとっては、その数の指数関数的な増加を可能とする食糧を提供したという点において、大躍進であったこと自体はハラリも認めています。サピエンスという種全体にとっては大きな利益をもたらしたものの、平均的な人々には必ずしもプラスであったとはいえない農業革命を、我々はどう評価すべきなのでしょうか。この点は、AIやロボットの普及が、社会全体の著しい発展をもたらすと同時に、大量の「無用者階級」(ハラリが提唱した、AIやロボットの普及により経済的価値や労働需要を失い、社会から不要とされる大量の人間のこと)を生み出してしまうというシナリオをどう評価すべきかという点にも通ずる、非常に難しい問いであるように思います。

(2)「想像上の秩序」による大規模な協力ネットワークの構築
① 大規模な協力ネットワークを維持することができた秘訣

なにはともあれ、農業革命により急速な人口増加が果たされました。そして、しだいに多くの人が密集して暮らすようになりました。

農業革命によって混雑した都市や帝国を打ち立てる機会が開かれると、人々は、偉大なる神々や母国にまつわる物語等を創作し、社会的つながりを提供しました。そのような人間の想像力のおかげで、人間は、地球上ではかつて見られなかったレベルの大規模な協力のネットワークを構築し、維持することができたのです。

ハラリは、そのような協力のネットワークは「想像上の秩序」であり、それらを維持していた社会規範は、共有された神話を信じる気持ちに基づいていたと述べています。そして、歴史上とりわけ有名な2つの神話の例として、紀元前1776年ごろに制定されたハンムラビ法典と、1776年に書かれたアメリカ合衆国の独立宣言を挙げています。いずれも、普遍的で永遠の正義の原理を謳ったものですが、その内容は相当に異なっています。例えば、独立宣言は、すべての人は平等であるとしているのに対し、ハンムラビ法典は、人々を2つの性と3つの階級(上層自由人、一般自由人、奴隷)に分けています。私たちは、ハンムラビ法典が定める人々の3つの階級(上層自由人、一般自由人、奴隷)が想像上の産物に過ぎないことは容易に受け入れることができるでしょう。ハラリは、それと同様に、あらゆる人間が平等であるという考え方もまた、想像上の産物にすぎないと指摘します。

ハラリは、私たちが特定の「想像上の秩序」を信じるのは、それが客観的に正しいからではなく、それを信じれば効果的に協力して、より良い社会を作り出せるからだと述べています。

② 「想像上の秩序」を維持する方法

また、ハラリは、「想像上の秩序」は常に崩壊の危険をはらんでいると指摘します。なぜなら、「想像上の秩序」は人々が信じなくなった途端に消滅してしまうからです(これに対し、例えば「重力」などの自然の秩序は、人々が信じなくなったとしても消えてなくなることはありません)。

そのため、「想像上の秩序」を維持するためには、それを保護する努力を続けることが必要であり、軍隊、警察、裁判所、監獄の存在などはその努力の一例といえます。また、ハラリは、「想像上の秩序」は、人口の相当部分が心からそれを信じているときにだけしか維持できないと述べています(※3)。

(※3)以上の点は、私に、有斐閣Onlineでの連載「連載/草野耕一最高裁判所判事退官記念座談会:倫理と経済が交わる場としての司法」の第5回 民法(後編)(2026年2月27日公開)における草野先生の以下のご発言を思い出させました。

「法の支配というのは、法律家間の共有知、大げさに言うと、ローマ法以来2000年の歳月をかけて積み重ねられてきた法律家間の共有知、それは日本ではまさに判例法という形で現れているわけですが、それをできるだけ尊重しながら社会の諸問題を解決していこうという理念だと思います。しかしながら、そのような理念が社会から受け入れられ続けるためには、社会常識的に考えて明らかにおかしいと思える判例法を修正する努力を怠ってはなりません。」

法律家は、長年の歳月をかけて積み重ねられてきた法律家間の共有知が、常に崩壊の危険をはらんでいることを自覚し、それを保護していくには、多くの人々が心からそれを望ましいものだと信じることができるよう、真摯な態度でその維持・改善に取り組み続けることが重要であるとの思いを新たにした次第です。

その上で、ハラリは、(キリスト教や民主主義、資本主義といった)「想像上の秩序」の存在を人々に信じさせるには、まず、その秩序が想像上のものだとは決して認めてはならず(※4)、社会を維持している秩序は、偉大な神々あるいは自然の法則によって生み出された客観的実体であると常に主張すべきと述べています。

(※4)宗教、貨幣、国家、人権、民主主義、資本主義などはすべて「虚構」であり「想像上の秩序」に過ぎないことを本書で鋭く指摘したハラリは、そのような考えを本書を通じて少なくとも2500万人以上に伝えてしまったことをどのように捉えているのか、ぜひ聞いてみたいところです。

(3)統一に向かう世界

農業革命以降、人間社会は次第に大きく複雑になり、社会秩序を維持している想像上の構造体も精巧になっていきました。その間、人類の文化は絶えず変化してきましたが、数千年の単位で見渡せば、文化は統一の方向に進み続けているとハラリは言います。

ハラリは、紀元前1000年紀に、普遍的な秩序となる可能性をもった3つの虚構が登場したと言います。「貨幣」、「帝国」、(仏教やキリスト教、イスラム教といった)「普遍的宗教」の3つがそれです。これらの秩序がどのように今日の一体化された世界の基礎を築いたのかは、比較的想像しやすいところかと思います(興味のある方は、本書の第10章から第12章で詳述されていますので、ご覧下さい)。

余談になりますが、ハラリが、近代の自由主義や共産主義、資本主義、国民主義、ナチズムといったイデオロギーも、「宗教」の一種としてとらえている点は面白いところかと思います。宗教には、キリスト教やイスラム教のような有神論の宗教のほかに、仏教や儒教のように(神やそれ以外の超自然的存在に対する信仰に焦点を当てるのではなく)自然法則(という超人間的秩序)を重んじる宗教も存在します。この点を踏まえ、ハラリは、「宗教」を「超人間的な秩序の信奉に基づく人間の規範や価値観の体系」であると定義したうえで、上述の各種のイデオロギーも、自然法則(という超人間的秩序)を重んじるタイプの宗教の一種であるととらえているのです(※5)。

(※5)この点、例えばマルクスも、本来ただの「モノ」にすぎない商品やお金に神秘的な力があるかのように崇めて執着する資本主義の仕組み自体が、近代における一種の宗教(物神崇拝)であると批判しているそうです。逆に、共産主義自体がある種の宗教のようだと感じた経験をお持ちの方も、少なからずいらっしゃるのではないでしょうか。

(4)農業革命の意義と「虚構」の力

農業革命はサピエンスの人口爆発を可能としたという点において、サピエンスの歴史の流れを加速させた、極めて重要な革命であったと言えます。もっとも、そのような人口爆発も、サピエンスの虚構を共有する能力(ひいては大規模な協力関係を構築する能力)があって初めて、強大な力を発揮することができたと考えると、やはり認知革命こそが、サピエンスの成功・繁栄にとって最も重要で根本的な革命であったと考えてよいように思います。

5.科学革命

科学革命は、人類の歴史の道筋を決めた重要な3つの革命の最後の1つであり、わずか500年前に始まったものとされています。

(1)科学革命の本質

ハラリは、科学革命の本質は、人間が、「自らにとって重要な疑問の数々の答えを知らない」という、無知を認めたことにあるとしています。

イスラム教やキリスト教、仏教、儒教といった近代以前の知識の伝統は、この世界について知るのが重要である事柄はすでに全部知られていると主張していました。偉大な神々や単一の万能の絶対神、あるいは過去の賢者たちが、すべてを網羅する知恵を持っており、それを聖典や口承の形で私たちに教えてくれる(あるいは、重要でない事柄については、わざわざ伝えない)と主張していたのです。この伝統を覆し、人間が進んで無知を認める意思をもったことで、近代科学は従来の知識の伝統のどれよりもダイナミックで、柔軟で、探究的になり、世界の仕組みを理解したり新しいテクノロジーを発明したりする能力は大幅に増加したのだと、ハラリは指摘しています。

(2)科学革命を支えた「虚構」

また、ハラリは、過去500年間の近代科学の驚異的な成果は、適切な資金提供がなければ実現できなかったはずであると指摘し、莫大なお金の方が、ガリレオ・ガリレイやクリストファー・コロンブス、チャールズ・ダーウィンよりも科学の発展に大きな貢献をしたと述べています(もしこれらの天才が生まれていなかったとしても、きっと誰か別の人が同じ偉業を達成していただろうと言うのです)。

既に述べたとおり、貨幣や資本主義も「虚構」です。したがって、科学革命による劇的な科学技術の発展を支え、実現せしめたのも、また、サピエンスの虚構を共有する能力であったと言うことができるでしょう。

6.文明は人間を幸福にしたのか

科学革命以後の約500年で、人間は驚くべき進歩を遂げました。地球は生態的にも歴史的にも、単一の領域に統合され、経済は指数関数的な成長を遂げ、人類は現在、かつては想像もつかなかったほどの豊かさを享受しています。

しかし、ハラリはここで、根本的な問いを私たちに投げかけます。
「私たちは以前より幸せになっただろうか?」と。

ハラリは、農業革命がそうであったように、新たな行動様式や技能が生活を向上させるとは限らないと指摘します。生物学的進化と同じで、歴史の選択(文化的な進化)も、人間の利益のためになされるわけではなく、人間に有益な文化が成功して広まり、有益でない文化は消えていくという証拠はないのです。ハラリは、「ミーム学」にも言及し、成功するのは、宿主である人間にとっての代償と便益に関係なく、自らのミームを繁殖させるのに長けた文化だ、とも述べています(※6)。

(※6)この点は、社会的選択の望ましさは、その選択のもたらす帰結の望ましさによって判定するべきという帰結主義(consequentialism)という考え方の重要性を再認識させてくれる部分でもありました。人間がそのような視点をもって社会的選択に臨まない限り、文化的な進化が人間社会にとって有益な方向に導かれることは何ら保障されないのですから。

さらに、ハラリは、上記の問いに答える前提として、何が人々を真に幸福にするかや、幸福度の測定の仕方、化学(セロトニンやドーパミン、オキシトシンのような生化学物質から成る複雑なシステム等)から見た幸福の意義、人生の意義等についても思索を巡らせています。ここでその内容に踏み込むことは控えますが、個人的には、(我が子の幸福を願う一人の親としての立場から)近年興味を持っていたテーマでもあり、大変考えさせられる内容でした。

7.超ホモ・サピエンスの時代へ

本書の最終章(第20章)は、サピエンスの未来についても言及しています。

ハラリは、21世紀のサピエンスが、自然選択(自然淘汰)の法則を打ち破り始めており、知的設計(Intelligent Design)の法則をその後釜に据えようとしていると述べています。知的設計とは、知性を持つ存在によって生命や宇宙が設計されたという考え方であり、過去においては、進化論(特にダーウィンの自然選択説)に基づき多くの生物学者によって否定された考え方です。ハラリは、21世紀のサピエンスが知的設計の主体となる可能性に言及しているのです。

ハラリは、本書執筆時点における知的設計の形として、生物工学(例えば遺伝子の移植)、サイボーグ工学(例えば、脳とコンピューターを直接結ぶ双方向型のインターフェイスの発明)、非有機的生命工学(例えば、コンピューター内に完全な人間の脳を再現する試み)を挙げています。

そして、ハラリは、歴史の次の段階には、テクノロジーや組織の変化だけではなく、人間の意識とアイデンティティの根本的な変化も含まれうること、それらの根源的な変化により「人類」という言葉そのものの妥当性を問われることにもなりうること、それまでにあとどれだけの時間が残されているのかは誰にも分からないことなどを述べ、「私たちは何になりたいのか?」「私たちは何を望みたいのか?」を考えることに時間を割くべきであろうと指摘しています。さらに、本書のあとがきを、「自分が何を望んでいるかもわからない、不満で無責任な神々ほど危険なものがあるだろうか」という言葉で締めています。

非常に重い問いかけであり、現時点の私には十分な論評をするだけの知見がありません。おそらく、ハラリの三部作の1つである『ホモ・デウス』で深く論じられているテーマだと思われますので、同書も読んでみたうえで、さらに考えてみたいと思っています。

8. 最後に

本書の訳者は、「訳者あとがき」で、読書の醍醐味の1つは「目から鱗が落ちる」体験をすることであると述べています。私にとって、サピエンスを地球唯一の支配者にしたのは「虚構を共有できる能力」だったという視点は、まさに「目から鱗が落ちた」ポイントでした。

人権も民主主義も法律もすべて「虚構」であるとするハラリの主張は刺激的ですが、「虚構」の共有こそがサピエンスの強さの源泉であり、サピエンスの進む道を決めるのだとすれば、そういった「虚構」を適切に解釈し、維持し、更新する役割を担う法律家の責任は極めて重いと改めて感じました。

本書には、本コラムで紹介しきれなかった「目から鱗」ポイントがほかにも多数ありましたので、ご興味のある方は、ぜひ本書を手に取ってみていただければと思います。もっとも、個人的には、ハラリはやや「あおり癖」があり、あえて挑発的な表現や過度に単純化した表現、センセーショナルな表現をとる節があるようにも感じました。実際、本書は、学術界で様々な批判も受けているようです。そのあたりは少し割り引いて読んでいただくとよいかと思います。