コラム
普仏戦争と日清戦争(その4)
【ビスマルクの使命と伊藤博文の決断】
ビスマルク氏との対談は――もちろん、それは想像の世界での出来事ですが――私にとって意義深いものでした。なぜならば、ビスマルクが構想した彼の善き人生にとって、普仏戦争は避けて通ることのできない営みであったことを確信することができたからです。プロイセンの宰相になるまでの彼の半生は、傍から見れば順風満帆なものでしたが、彼の内面の世界に立ち至って考えてみると、なかなかに悩み多きものでした。しかし、その半生を通じて、ビスマルクは、自分がこの世において果たすべき使命は、プロイセン王ウィルヘルム一世を皇帝と仰ぐドイツ民族の統一国家を築きあげること、そして、その国をしてヨーロッパ随一の豊かで強い国家ならしめることであるという信念を抱くに至ったように思えます。ビスマルクは、持ち前の並外れた知力と胆力を活かしつつ、この使命を見事に果たしました。そして、普仏戦争は、彼がこの使命を全うするために不可欠な営みでした。確かに、この戦争は、多くのフランス人民の心にドイツへの敵愾心を植え付けました。そして、その敵愾心は、20世紀のヨーロッパ史を陰惨なものとするうえで大きな役割を果たしました。しかしながら、たとえビスマルクがこの結末をすべて知っていたとしても、彼の普仏戦争開戦の決意は微動だにしなかったように思えます(のみならず、20世紀前半のドイツの指導者がもう少し善良な人々であったならば、この悲劇を回避する機会はいくつもあったのではないでしょうか)。
それでは、日清戦争開戦時の日本国総理伊藤博文の場合はどうだったのでしょうか。彼の場合も、日清戦争開始の決断は、自らの構想にかかる彼の善き人生を全うするうえで避けて通ることのできない営みであったと言えるのでしょうか。この点を探るべく、再び想像の翼を広げて、伊藤公との対話を試みたいと思うのですが、それに先立ち、読者の皆様にお断りしておきたいことがあります。それは、これから始める伊藤公との対話は、故高橋秀直博士の『日清戦争への道』(東京創元社・1995年)と佐々木雄一博士の『リーダーたちの日清戦争』(吉川弘文館・2022年)に負う部分が極めて大きいということです。高橋博士は、2006年に51歳の若さで急逝された歴史学者であり、『日清戦争への道』は彼が京都大助教授就任直後に上梓された歴史書です。同書は、浩瀚な史料の調査と透徹した歴史分析に基づいて書かれた畢生の大作であり、その文章には類書の追随を許さない説得力があります。一方の佐々木博士は、若くして東京大学から博士号を授与された新進気鋭の歴史学者であり(現在39歳)、『リーダーたちの日清戦争』は、『日清戦争への道』が詳らかにした知見を踏まえつつ、同書上梓後における歴史学会の研究成果(佐々木博士自らの研究成果を含む)も活かして日清戦争前後の史像を人物本位な視点からバランスの取れた筆致で描いた好著です。私の文章を読んで疑問に感じる部分がありましたならば、ぜひ上記の両書を紐解かれることをおすすめする次第です。
【1906年、初代統監との対話】
前置きが長くなりましたが、早速、伊藤公との対談を始めましょう。なお、今回の対談は、彼が、第二次日韓協約に基づき設置された韓国統監府の初代統監として渡韓する直前(1906年)になされたものとお考え下さい(この時点を選んだのは、この時の方が、日清戦争の前後よりも伊藤公が自分の判断の当否を内省的に語るに相応しいと思ったからです。ちなみに、伊藤博文が公爵となったのは1907年ですが、ここでは、時のあとさきの問題は忘れて「伊藤公」という尊称を用いることにいたします)。
伊藤公: なるほど、事情は大体わかった。要するに、君の生きている21世紀の世界から見ると、日清戦争を始めたことが20世紀の日本が破滅の道を歩むに至った元凶であったように思えるが、そんな愚かな戦争を聡明な政治家である私がなぜ始めてしまったのか、そのわけを知りたい、とそういうわけだな。
私: そうです。当時の東アジアの国際政治環境の下で我が国が清国と戦争をする必然性は全くなかったように思えます。しかも、当時の閣下はすでに功成り名を遂げた政治家として藩閥政府の頂点にあり、明治天皇からも絶大な信頼を得ておられました。閣下の実力をもってすれば、功名心に逸る陸奥外務大臣や戦争をしたくてうずうずしている薩摩閥の軍人が何を言おうとそれを抑える力は十分おありになったはずです。それなのになぜかくも大義を欠いた戦を始めてしまったのでしょうか。
伊藤公: ふうむ。戦に大義が必要だとは思わないが(少なくとも私が学んだ万国公法の教科書にそんなことは書いてなかったぞ)、その点はさておき、なぜ戦争を始めたのかと聞かれれば、正直言って、どう答えたらよいのか自分でもよくわからんのだ。
私: どういうことでしょうか。
伊藤公: いくつかの偶然が重なり、気が付いたら、清国と戦をする以外の選択肢がない事態に立ち至っていた。ただし、私は、戦争を始めたことを後悔してはおらんぞ。それどころか、あの時点で清国と戦をしたからこそ、我が国は、その後輝かしい発展を遂げることができた。日英同盟の締結も日露戦争の勝利も、すべては、清国と戦ってそれに大勝したからこそ起こり得たことである。
私: そうですね。確かに、今(1906年)の視点から見れば、間違いなくそう言えそうです。どうも、話を急ぎ過ぎてしまったようです。まずは、日清戦争に至るまでの日韓と日清の関係史を振り返ってみることにいたしましょう。閣下が日清・日韓の外交問題に本格的にかかわるのは1884年の甲申事変の時からですよね。
【「事大主義」と「小中華思想」が生み出した韓国固有の外交観】
伊藤公: そうだ。その前の年(1883年)まで、私は憲法調査のため欧州に行っておったからな(ただし、1879年の琉球処分〈琉球の宗主国を自認する清国の意に反して琉球を沖縄県として日本に編入したこと〉は当時内務卿であった私の主導で行われたことだ)。
私: では、それまでの歴史を私の方でかいつまんでお話しいたしますので、何かコメントがありましたら、自由にご発言ください。まずは、江戸時代の歴史をお話しします。
伊藤公: そんな昔のことから話すのか。
私: 明治政府の方々は江戸時代の日韓・日清関係にあまり関心を持たれなかったようですが、21世紀に生きる私から見ると、そのことが明治の日韓・日中の外交史を不健全なものにした原因の一つであるように思えます。
伊藤公: わかった。聞かせてもらおう。
私: 日韓関係から始めます(以下、文脈によって、韓国を朝鮮とも呼び、日韓関係と日朝関係は同義の言葉として用います)。1590年代に豊臣秀吉が行った朝鮮半島への軍事侵攻(文禄の役と慶長の役)が韓国臣民に多大な災害をもたらしたことは閣下もよくご存じですよね。これによって日朝間の外交関係は途絶したわけですが、豊臣政権を亡ぼして我が国の軍事的支配を確立した徳川幕府はただちに日朝間の国交修復を図りました。そして、宋氏率いる対馬藩の努力などによって両国間の関係は急速に回復し、1607年以降、朝鮮は日本に対して定期的に(江戸時代全体を通じて12回)外交使節団を送るようになり(1636年以降この使節団は「通信使」と呼ばれるようになりました)、一方、対馬の藩士や商人は釜山の倭館に常駐して日朝間の貿易に従事するようになりました。
伊藤公: 朝鮮の通信使は江戸まで来るのに、我が国の使節団が釜山にとどまり、首都である漢城には行かなかったのはなぜだろう。
私: 漢城行きは先方に断られたのでしょう。秀吉にあれだけひどい目にあっているのですから、倭国の武士が半島の内奥部に再度侵入することは許さないという政策は朝鮮の目から見れば当然のものであったと思います。
伊藤公: それにしても朝鮮政府は、賠償金の支払いも求めずに、よくも国交回復に応じてくれたものだ(朝鮮政府が国交回復のために要求したものは家康から先に国書を送ること〈家康先為国書〉と戦争中に王陵をあばいた犯人を縛送すること〈王陵犯人縛送〉だけでした)。
私: 一つの理由は、家康が、その家臣団も含めて、文禄の役にも慶長の役にも参加していなかったことだと思います。それから、もう一点、当時の朝鮮は南の日本に加えて北の後金(後の清国)からの侵攻にも悩まされていました(朝鮮では、日本の侵攻を「倭乱」、後金の侵攻を「胡乱」と呼んでいました)。朝鮮政府は、南北双方からの外患の脅威に対し、せめて南の脅威だけでも取り除いておきたいと思ったのではないでしょうか。
伊藤公: 後金、つまり後の清国の脅威のお陰で日韓関係は修復されたというわけか。
私: だと思います。ただし、このことは我が国の為政者に、「韓国に対しては、少々ひどいことをしても許してもらえる」という思いあがった外交観(「夜郎自大的な外交観」といってもよいでしょう)を植え付けたように思います。明治以降の隣国に対する我が国の振る舞いが全般に粗暴で加害者意識を欠いているのは、(同時代史の中で列強から学んだ「弱肉強食の外交術」の影響もさることながら)この歴史的「教訓」によるところが大きいように思います。
伊藤公: 君の言い方は辛辣だが、たしかにそういう傾向があったかもしれんな。
私: 「胡乱」は、韓国の歴史にもう一つ大きな陰影を与えました。「倭乱」は明の援助のもとになんとか撃退できたものの、胡乱は後金の勝利・朝鮮の敗北に終わり、あまつさえ、後金は明を亡ぼして東アジア最大の覇権国家=大清国となってしまったからです。このことは朝鮮の為政者たちの精神に複雑なエートスを扶植しました。なぜならば、朝鮮は儒教国家である明の威徳を多年にわたり尊崇し、この威徳に服(まつろわ)ない女真族(=胡)を夷狄視していたわけですが、これからは、その夷狄を宗主国として敬わなければならなくなったからです。この結果、朝鮮の王族や政府の高官は、外形的には清王朝への服従を徹底させながら(この精神を「事大主義」といいます)、他方においては、明の威徳を偲び清の野蛮性を嫌悪する精神(崇明排清)を内に秘めつつ、朝鮮こそが儒教国家であった明の正統な後継者であるという自負心(小中華思想)を醸成していったのです。明治初期における朝鮮の極端な排外主義(攘夷論)はこの小中華思想を踏まえて考えなければ理解不能なもののように思えます。
伊藤公: それにしても、大院君(明治維新期に摂政として朝鮮政府の実権を握っていた王族。正式な名称は「興宣大院君」。大院君とは、王位が父から子への直系で継がれなかった時に、新しく王となった人物の父親に与えられる尊称)の場合は、狂信的と言いたくなるほどの攘夷論者であったな。
私: たしかにそうですね。史実を確認しておきますと、彼は、数千人のキリスト教徒とフランス人宣教師を殺害し(1866年)、報復として侵攻してきたフランス艦隊を撃退し(同年)、アメリカの武装商船を焼き討ちし(同年)、その賠償を求めて侵攻してきたアメリカ軍を撃破し(1871年)、あまつさえ、全国各地に、「西洋と和睦することは国を売る行為である」と刻んだ石碑(斥和碑)を建立しています。
伊藤公: そんな彼のもとに、(彼の目から見れば)、「西洋にかぶれた」明治政府が開国を求めに行ったのだから、そりゃあ、けんもほろろにされるわな。
私: そうですね。名目上は、我が国政府が王政復古を朝鮮政府に伝えるために作成した文書に(宗主国たる中国の皇帝に関してのみ用いられるべき)「皇」や「勅」の字を用いていたことが文書受け取りの拒否事由とされましたが(書契問題)、大院君にとっては、開国の道を突き進む日本の在り方そのものが許し難かったのではないかと思います。そう言えば、閣下が岩倉使節団(岩倉具視を大使、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文らを副使とする遣欧米使節団)の一員として帰国された当時(1873年)の最大の政治問題は「征韓論」でしたね。
【権力闘争と「永久革命」の夢】
伊藤公: そうであった。岩倉使節団のメンバーが日本を留守にしている間の政府(留守居政府)は、開国に応じない朝鮮の在り方を日本への辱めと受け止め、軍事力を背景に力ずくで朝鮮に開国を応じさせようという考えを抱くようになった。そして、その端緒となるべき施策として、西郷さん(西郷隆盛)を朝鮮に派遣することを決定した。これに対して、帰国直後の岩倉さんや大久保さんが異議を唱え、微力ながら私も反対論の論陣に加わったというわけである。
私: その論争が、岩倉さんや大久保さんらの勝利に終わり、敗れた西郷さんらが参議を辞めて下野するに至ったことは私たち後世の人間は誰もが知っています。私が分からないのは、この程度の問題で西郷さんと大久保さんという二人の英傑が袂を分かたなければならなくなったことです。
伊藤公: 「この程度の問題」と君は言うが、西郷さんは命を賭して韓国へ渡ると決めていたのだから、そう簡単に決意を翻すことはできなかったであろう。
私: そうでしょうか。先ほど申し上げましたように、大院君率いる朝鮮政府は、すでにフランスとアメリカの二国を相手に過激な攘夷騒動を起こしています。ここで日本が軍事力を背景に朝鮮に開国を迫ったとしても、列強はこれを積極的に支持するか、少なくとも好意的傍観をしていたことでしょう。現に、このわずか2年後の1875年に日本は軍艦を派遣して朝鮮を挑発し、その結果発生した武力衝突(江華島事件)に勝利して朝鮮を強引に開国させていますが(後述の日朝修好条規の締結)、列強はこれに異を唱えるどころか、これに追随するかのように朝鮮と同様の条約を締結しています。つまり、留守居政府が決断した「軍事力を背景に朝鮮に開国を迫る」ことは、岩倉さんや大久保が職を賭してまで反対しなければならない政策ではなかったはずです。「大西郷」を派遣することが問題なのであれば、誰か他の人、例えば、薩摩閥の文官で当時大久保さんに次ぐ地位に上りつつあった黒田さん(黒田清隆)あたりを派遣すればよかったではないですか。
伊藤公: ふーむ。今から考えればそう思えなくもないが、当時の政治状況のもとではとてもそうはいかなかった。なぜならば、征韓論争はある種の権力闘争になっていたからだ。
私: どういうことでしょうか。
伊藤公: 留守居政府は、征韓論争を利用して、岩倉使節団の帰国組、特に大久保さんを政権の中枢から遠ざけようとしていた。特に、江藤さん(佐賀藩出身の江藤新平)の大久保さんに対する敵愾心は強く、大久保さんもそのことがわかっていたので、一歩も退くわけにはいかなかったのではなかろうか。
私: 大久保さんの立場はわかります。でも西郷さんはどうですか。西郷さんにとって、大久保さんは、江藤さんや後藤さん(土佐藩出身の後藤象二郎)などとは比べようもないほどに大切な生涯の盟友だったのではないですか。
伊藤公: それはそうだが、西郷さんには、江藤さんらとは異なる、ある意味ではもっと深刻な理由があって、朝鮮行きを断念するわけにはいかなかったのだと思う。
私: どういうことでしょうか。
伊藤公: これは、岩倉使節団の長旅のつれづれに大久保さんから聞いたことだが、函館で榎本さんら(元幕臣の榎本武揚)が降伏したことをはじめて聞いたとき、西郷さんは、「まだ戦が足りもうさぬ」と嘆いていたそうだ。
私: それは不思議ですね。戊辰戦争の終結は、明治政府にとって最大の吉報だったはずですが。
伊藤公: 西郷さんの感じ方は違っていたのだろう。西郷さんは、日本中の士族が各自の信念を貫いて戦いを続ける世界を想定していたのではないか。そして、大半の士族が、さらに言えば、守旧的な考えを持った権力者の多くが、戦半ばで斃れ、それによって生じた廃墟とも言うべき空間の中から、新生日本が生まれ出ることを夢見ていたのではなかろうか。
私: 11年続いた応仁の乱(1467年~1478年)のような戦をしたかったというわけですか。それって、ロマンチストの革命家が夢見る「永久革命」みたいですね。でも、そんなことをしていたら、日本は列強の餌食になってしまったのではないですか。
伊藤公: そのことは、西郷さんもよくわかっていたであろう。さればこそ、薩摩の主君である島津久光公の怒りを買うことを百も承知で、廃藩置県の断行にも協力してくれたし、留守居政府の筆頭参議にもなってくれたわけだ。ただし、西郷さんの胸中に蟠る「永久革命」の夢は消えていなかったのかもしれない。そして、「国内にもはや戦場がないのであれば、戦いの場を朝鮮半島に求めるしかない」と考えたのではなかろうか。さらに穿った見方をさせてもらうならば、征韓の道は島津久光公の怒りを鎮める上でも有効と思ったかもしれない。なぜならば、文禄の役や慶長の役で獅子奮迅の活躍をした武士たちの末裔である薩摩藩士にとって、朝鮮半島の制圧は見果てぬ夢の続きとも言える壮挙であるからだ。
私: なるほど。朝鮮を開国させるというのは口実で、真の狙いは、戦をやり足りない士族たちに死に場所を与え、同時に、久光公との和解を図ることにあったというわけですか。それが目的となれば、西郷さんも譲歩できなかったでしょうし、内治を優先させ富国強兵政策を推し進めようと考えている岩倉さんや大久保さんも絶対に妥協することはできなかったでしょうね。
伊藤公: だと思うのだが。おっと、話がだいぶ本論から外れてしまったようだな。
私: とんでもありません。というか、お話をお聞きしたおかげで、薩摩出身の軍人たちが(結果的に西郷さんと行動を共にしなかった人たちも含めて)異常なまでの大陸進出熱を抱き続けていたことの遠因が何であったのか分かった気がします。(次号に続く)