コラム
Yuri as Managing Secretary
【Legal Crusadersのご紹介:松尾拓也先生】
雨の多かった夏が終わり、間もなくお彼岸ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。さて、LMBのコラムニスト(以下、Legal Crusadersと呼ばせていただきます)は、今回(第7号)から総勢で6名となりました。そこで、改めまして、私と草野先生を除くLegal Crusadersの皆様を、お一人ずつ、私の目線でご紹介させていただき、それを踏まえて私と草野先生の会話を進めていこうと考えました。本日は、その第1回といたしまして、松尾拓也先生をご紹介させていただきます(執筆開始順で言えば、住田邦生先生の方が先ですが、住田先生は少し恐れ多いので、一緒にゴルフをする機会などをいただいてからご紹介したいと思います)。
松尾先生は、34歳の若さで西村あさひのパートナーになられた超エリート弁護士です。そんな松尾先生が私にとって身近な存在であるのは、ひとえに、先生が、昔も今も、草野先生がお弟子さんとして絶大な信頼を寄せておられるお方だからです。そんなご縁から、私も松尾先生とは仕事や遊び(J-pop歌唱など。これからは、ゴルフも)をご一緒させていただく機会が多いのですが、松尾先生のお人柄は「完全無欠」というほかありません。ちなみに、ある時私が、
「髪を切りすぎちゃいましたぁ」
と嘆いていたら、
「それはご災難でしたね」
とおっしゃるので、
「いえいえ、災難と言うほど気にはしていませんが」
と申し上げたところ、先生は、
「そうですか。僕の場合、人から『髪を切りましたね』と指摘されるだけで『しまった』と感じてしまうものですから」
とお答えになられました。どういうことか最初は分からなかったのですが、要するに、髪の毛を切るという行為は外見を気にしていることの証であるところ、外見を気にしていると悟られることは法律家のあるべき姿ではないとお感じなそうなのです!(ちなみに、草野先生は、せっかく髪形を変えてもそれを周囲の人に〈例えば、私に〉気づいてもらえないとがっかりしてしまうそうです)。
このように言うと、松尾先生が「石部金吉(古い言い方ですいません)」のように聞こえるかもしれませんが、決してそんなことはありません。先生はユーモアのセンスにもあふれたお方であり。草野先生が企画する各種のイベントでMCをおつとめになるときなどは吉本興業のエンターテイナーにも引けを取らないほどの役者ぶりを発揮されます。
そんな松尾先生の数少ない弱点が「読書嫌い」であったことは、LMB5号のコラムでご本人がおっしゃっておられることですが、今般その弱点を見事に克服されて、「法律家名著を読む」の連載を開始されたことは、私から見てもまさに快挙であり、今回ご寄稿いただくコラムも、どのようなものになるのか今から楽しみです。
ところで、今回のコラムではハンチントンの『文明の衝突』を読み解かれると聞いておりますが、そもそも「文明論」とは、いかなるジャンルの学問に属するお話しなのでしょうか。さっそく「趣味は勉強」を自認する草野先生に聞いてみることにいたしましょう。
(私)松尾先生が前々回に取り上げた『利己的な遺伝子』は生物学、前回取り上げた『サピエンス全史』は歴史学(一部は考古学)の本ですよね。では、今回の『文明の衝突』の主題である文明論は「何学」の本になるのですか。
(先生)それはいい質問ですね。「異なる文明を比較して論じる」文明論は、実証性を重んじる現代歴史学の範疇には収まりづらいし、かといって、伝統的な哲学とも方法論を異にしていて、学問というよりは、むしろ、思想ないしはある種の文学と捉えるべき世界の話と言えるでしょう。ただし、優れた頭脳(特に、右脳)の持ち主であればだれもが一度は論じてみたいテーマであるらしく、例えば、モンテスキューの『法の精神』やヘーゲルの『歴史哲学講義』もかなりの紙数を文明論議に充てています。
【福沢諭吉『文明論の概略』と「愛国心」】
(私)日本には文明論の名著はないのですか。
(先生)ありますよ。しかも極め付きの名著があります。
(私)それは何でしょうか。
(先生)慶應義塾大学の創立者であられる福沢諭吉先生(以下、「諭吉」という)が1875年(明治8年)に上梓した『文明論の概略』(以下、『概略』という)です。
(私)その本にはどんなことが書かれているのですか。
(先生)いろいろなことが書かれていますので、ここでは、少し視点を変えて、諭吉がどんな問題意識の下に『概略』を書いたのかを中心にお話しいたしましょう。『概略』執筆時に諭吉が抱いていた最大の関心事は、我が国を西洋列強の侵略からいかに守るかということでした。
(私)それって、幕末の志士たちが異口同音に語っていた国防論議と違うのですか。
(先生)抽象的には似ていますが、諭吉の場合は、三度の海外渡航の過程で直接見聞した事実と欧米の書物(特に、イギリスの歴史家Henry Buckleの『イギリス文明史(History of Civilization in England)』とフランス七月王政期の首相にして歴史家でもあった François Pierre Guillaume Guizotの『ヨーロッパ文明史』(Histoire générale de la civilisation en Europe))を精読して得た知識をもとに、透徹した論理と訴求力のある文章によって論を進めている点が、並みの悲憤慷慨家や自称愛国者と決定的に異なっています。
(私)でも、日本が列強に侵略されるなんて事態は到底起こり得なかったことのように思うのですが。
(先生)現代の日本人がそう感じるのはある意味でもっともなことですし、そこまでの自信を日本人が持てるようになったことを諭吉も天国で喜んでおられることでしょう。しかしながら、明治初期の日本において、諭吉が我が国の行く末に強い危機感を抱いたのには十分な理由がありました。なぜならば、第一に、明治政府が江戸幕府から承継した列強との通商条約は、列強に治外法権を認めている点と我が国の関税自主権を否定している点において我が国の主権を脅かすものであり、現に、明治初期の日本は、物資の欠乏や物価の高騰(これは関税自主権の欠如が生み出した弊害です)、あるいは、横浜や神戸における西洋人の邪知暴虐なる振る舞い(これは治外法権が生み出した弊害です)に悩まされていました。しかしながら、諭吉が真に憂慮したことは、そのような現実社会の出来事よりも、そのような現象を目のあたりにしながら安穏と暮らしている当時の平均的日本人の精神に潜む問題の方でした。ちなみに、諭吉は、この問題を「独立心の欠如」(文脈によっては「報国心の欠如」)と呼んでいますが、ここでは、現代人の言語感覚に合わせて、「愛国心の欠如」と呼ぶことにいたします。そして、諭吉は日本人には愛国心がないばかりか、愛国心を持つために必要な知力(諭吉のオリジナルな言い方では「知徳の弁」)そのものが欠けていると断じたのです。
(私)愛国心を抱くために必要な知力が日本人に欠けていたと言われると少し心外な気がしますね。私が学んだ日本史の知識に拠る限り、江戸時代の日本人の識字率は当時の他の文明国と比べても圧倒的に高く、武士階級はもとより、農民や商人の間にも論理則と経験則に則って思考を進める能力を持った知識人はたくさんいたように思いますが。
(先生)谷村さんのご指摘はもっともです。諭吉の場合、中津の下級藩士として不遇の生涯を送った父を見て培った幕藩体制に対する敵愾心(「門閥制度は親の仇でござる」)と日本史(特に、中世史)の勉強不足から、意見がいささか極端なものになってしまうきらいがありました。しかしながら、諭吉の問題意識は故なきものではありませんでした。例えば、戊辰戦争において佐幕派に与した諸藩の武士たちが政府軍に対して必死の抵抗を試みている間、これらの藩の農民たちは以前と変わらぬ日常の生活を送っていたと諭吉は指摘しています。ただし、そのような農民の行動を諭吉は非難しているのではありません。要するに、江戸時代における「国家」である藩の存亡は、その国の「国民」である農民にとっては、自分たちの利害にはかかわらぬことと受け止められていたということであり、それが、平均的な日本人の国家観であるとすれば、明治維新によって生まれた「日本」という新生国家が西洋列強によって侵略されたとしても、多くの日本人は、そのことを唯々諾々と受け入れてしまうのではないか、そう諭吉は懸念していたのです。
(私)なるほど。そう言われてみれば、少しわかる気がします。私の祖父が警察官僚であったことは前回のコラムでもお話ししましたが(第11代警察庁長官)、終戦直後における最大の治安問題は、多年にわたり「鬼畜米英」と教え込まれていた日本国民が進駐軍の将兵に危害を加えることであるという大方の予想に反して、日本人は進駐軍に対して信じがたいほどに好意的であった(さらに言えば、媚態を売る職業の女性や嗜好品を求めて米兵に追いすがる青少年たちの姿も目立った)という話を祖父から聞いた記憶があります。これなども福沢先生の懸念が本当のものであったことの証と言えるのでしょうか。
(先生)その点は、丸山真男も『「文明論の概略」を読む』の中で指摘しています(余談ながら、丸山は前回のコラムで紹介した庄司薫が東大法学部生時代に最も私淑した政治学者でした)。ただし、その現象に関しては、日本人の愛国心が1940年代においても浅薄なものであったからというよりは、国民の福利を踏みにじり続けた軍閥政治に愛想をつかした日本国民にとって進駐軍はある種の解放軍と映ったという点を重視すべきだと思います。ただし、根底にある問題は一つと言えるかもしれません。要するに、国民が健全な愛国心を持てるためには、国家の有事を自分の有事としてとらえる国民のエートスと、守るに値する内実を備えた政府の双方が必要であるところ、終戦時の日本には後者が欠けていたということです。これに対して、諭吉が見た明治初期の日本においては、守るに値する政府は形成されつつあったものの(諭吉は、明治政府が廃藩置県を断行したのを見てこの点を確信したように思えます)、国家の有事を自分の有事と捉える国民のエートスの方が欠けていた。そのことを諭吉は憂慮したのです(なお、以下では、文脈上疑義がなければ、このエートスと愛国心とを同義の言葉として用いることにします)。
(私)なるほど。よくわかりました。でも、愛国心の欠如と知力の欠如は別の問題ではないでしょうか。
(先生)それも大変いい指摘です。たしかに、現代人の感覚で言えば、知力不足などと言われたら、なんだか馬鹿にされているみたいで腹が立ちますよね。でも、諭吉の捉え方は違っていて、知力の問題だから救いがあるのです。なぜならば、問題が「日本の地理や気候の特殊性」とか「日本人の民族的習性」に由来するものであれば、改善は著しく困難ですが、知力の欠如だけが問題であれば、一生懸命勉強すれば状況を克服できるからです(ちなみに、諭吉は『概略』の執筆とほぼ並行する形で、もう一つの名著である『学問のすすめ』も執筆していました)。
(私)わかりました。諭吉は主知主義者、つまり、知性の効用を強く信じる方だったのですね。
(先生)そうです。そして、私が諭吉に共感する最大の理由もそこにあります。人間が(少なくとも、「ある程度以上の天賦の知力を持った人間が」)幸せに生きるための最善の道は、生涯勉強し続けて知性を磨くことである。そう私は信じています。
(私)にゃーるほど。それはしゅごいですね(この言い方については、LMB3号の私のコラムを参照ください)。でも、何を勉強したら、国家の有事を自分の有事と捉えるエートス、つまり愛国心を作り出せるのですか。
(先生)必要な知識は二段階に分けて考えることができます。そして、この二種類の知識のうちでは第二段階の知識の方がその重要性を直感的に理解しやすく、要するに、法律や経済や外交や軍事や工学や医学など、当時の西洋文明を形作っていた「実学」を学ぶことがこれにあたります(『学問のすすめ』では、実学の勉強の重要性を特に強調しています)。ただし、なぜ、実学を学ぶことが国民の愛国心の醸成に役立つのかを正しく理解するためには、第一段階の知識を学ぶ必要があります。
(私)「第一段階の知識」って何ですか。
(先生)気を持たせてしまってすいません。第一段階の知識、それこそが『概略』の主題である「文明論」、つまり、西洋の文明と日本の文明がなぜ異なるのかを歴史的に理解することなのです。
【西洋と日本、文明の違い】
(私)『概略』という本の構想が分かってきた気がします。で、二つの文明はどのように違うのですか。
(先生)ごく簡単にお話しします。まず、西洋文明の伝統として諭吉が重視したものは次の三つでした。
- 古代の都市国家が生み出し、中世の自治都市が承継した直接民主主義的政治形態
- ローマ帝国とその独裁的支配者となった皇帝にまつわる記憶に刻み込まれた絶対的権力という観念に対する憧憬(そこには秩序や隷従という観念に対する肯定的な捉え方も含まれます)
- 個人の自由独立を至高の価値と捉えるゲルマン民族の伝統
このような伝統の下で、西洋社会には様々な権力や権威が現出しました。封建諸侯、カトリック教会、プロテスタント、自治都市、大学、ないしはその権威に裏付けられた司法機関などがそれにあたります。そして、これらの権力ないし権威はそれぞれの理念を主張し、様々な形で文明の発展(国民の福利の向上)に貢献しましたが、いずれも他の権威や権力を圧倒するほどの力は持ち得ず、その結果として、それらの権力ないし権威が互いの存在を認め合う社会が形成され、他人が自分とは異なる人生観や世界観の下で生きる自由を尊重する、すなわちindividualism(個人主義)を肯定する伝統が生まれました。近世に至り、globalism(国際化)とindustrialism(産業化)の進展は、ただ今列挙したような中世的な権力や権威の力を相対的に弱体化させましたが、その分だけ、国家(絶対主義国家)と市民(国民)の権力や権威は増大し、後者の力の正当性は市民革命によって確固たるものとなりました(人権概念の確立)。かくして、国家と国民が互いのsupremacy(優越性)を認め合う、もっと具体的に言えば、為政者は人権の不可侵性を認めると同時に、国民の福利の向上こそが国家の存在意義の源泉であることを自覚するようになり、他方において、国民は、国家権力の絶対性を肯定すると同時に、国家の存亡は自己の存亡にかかわることであるという問題意識、すなわち、国家の有事は自分個人の有事であると捉えるエートスを持つに至ったというわけです(なお、以上の要約では、多分に、諭吉の思想に対する私独自の解釈や私自身の言葉使いを用いていることにご留意ください)。
(私)よくわかりました。非常に説得的だと思います。それで、一方の日本の文明はどのようなものだというのですか。
(先生)日本の場合は、古代から近世に至るまで、権力も権威も常に時の為政者のもとに集中し、宗教にも学術団体にも都市にもその他のいかなる中間団体にも権威はなく、国民一人一人は、ひたすら為政者を畏れ敬い、その威光に追随するばかりで、みずらかの価値観を作り出してそれに従って生きようというが如き気概は一切持ち合わせることのない社会が出来上がってしまった、というのが諭吉の捉えた日本の文明の姿です。
(私)それは、いくら何でも日本の歴史を卑下し過ぎではないでしょうか。
(先生)私もそう思います。先ほども言いましたように、諭吉は中津藩という小藩の下級藩士の子弟として過ごした自己の生い立ちに対する劣等感と日本史の勉強不足が災いしてか、日本の歴史の世界に誇れる美質を見落としていたと思います。特に、鎌倉時代から戦国時代まで続いた日本の中世は、諭吉が描いた日本の権力偏重社会とは全く様相を異にするものであったことは是非知っておいてください(中世前期においては、公家勢力と寺社勢力と武家勢力が、権力を分有する形で互いに覇を競い合っていたという歴史観(権門体制論)は多数の中世史家が唱えるところであり、さらに、中世中後期には、新興宗教組織、自治的都市〈特に、堺と博多〉、農村自衛組織、当事者主義的訴訟制度なども活発に機能していました)。ただし、諭吉が前半生を生きた江戸時代は、たしかに、「幕府一強体制」、その意味で、まさに「権力偏重社会」であったことは否定し難い事実であると思います(ただし、この体制の下で、日本は、暴力と謀略が支配する時代から秩序と道徳を重んじる時代への移行を果たし得たことや、西洋の歴史を血塗られたものにした宗教戦争の惨禍を免れ得たことも看過すべきではないでしょう)。そして、その幕藩体制が崩壊し、その結果、ある種の精神的虚脱状態に置かれた明治初期の日本人に、「国家の有事を自分の有事と受け止めるエートス」は期待し難いという諭吉の問題提起は正鵠を射たものであり、社会の木鐸としての諭吉の存在意義を歴史上不動のものにしたと評価できるのではないでしょうか。
【戦後の日本と諭吉の教え】
(私)分かりました。だから福沢先生は国民が守るに値すると思えるような国家の建設とそれを実現するために必要な実学の普及を説いたのですね。
(先生)その通りです。
(私)それで、福沢先生の提言は実現されたのですか。
(先生)完璧に実現されたわけではありませんが、諭吉の説くところは、明治政府の政策に絶大な影響を与えたと思います。明治14年の政変(大隈重信の失脚により、大隈と関係の深かった慶應義塾出身の官吏の多くが官職を失った事件)によってその影響力は多少弱まりましたが、諭吉は、その後も有力な新聞(時事新報)の主筆として、亡くなる直前まで健筆を振るい続け(諭吉の没年は1901年〈明治34年〉です)、政府の内治政策(富国強兵)や外交政策(西欧的な国際システムの模範的な構成員となること)の理論的支柱としての役割を果たし続けたと言えるでしょう。
(私)西欧的国際システムの一員となるということは、植民地獲得競争にも参画しなければならなかったということでしょうか。
(先生)それは厳しい指摘ですね。確かに、19世紀末は帝国主義の時代であり、西欧的国家システムの模範的一員となるためには、弱肉強食の論理が支配する当時の国際社会において、日本は、侵略される側の国ではなく侵略する側の国となる能力と意思を有していることを列強に示す必要があったのではないでしょうか。諭吉が「脱亜論」を説いて日清戦争を強く支持した背景には明らかにそのような時代認識があったように思います(この点については、次回の私のコラム〈普仏戦争と日清戦争〉でもう少し詳しくお話しするつもりです)。ただし、諭吉はプラグマティストですから、我が国の国情や時代の思潮が変われば当然彼の意見も変わるはずです(『概論』第1章が「議論の本位を定ること」の必要性を強調しているのは諭吉がプラグマティストであることの証左と言えるでしょう)。残念ながら、諭吉は日露戦争の開始を見ることなく亡くなってしまったので、ここからは推測で語ることしかできませんが、日露戦争を通じて明らかになった我が国の国力の限界を諭吉が正しく認識できたならば、さらなる大陸進出やそのための軍備増強には懐疑的になったはずであり、ましてや、第一次大戦後に生じた国際協調主義や民族自決主義の台頭を知った後の彼の世界観や外交観は決定的に異なったものとなったのではないでしょうか。私が思うに、諭吉が『概論』で説いた文明論は、むしろ、太平洋戦争に惨敗し亡国の瀬戸際に立たされた1940年代以降の日本においてこそ、その真価を発揮したのではないでしょうか。
(私)どういうことでしょうか。
(先生)戦後の我が国は、1947年に施行された現行憲法の下で、国民一人一人の福利の実現に最大の価値を置く国家を作り出しました。この新生日本こそは、諭吉が希求した愛国心の対象となるに相応しい国家であり、さらに、国際協調主義と自由貿易体制と法の支配を共通の理念とする戦後の国際社会は、その模範的な構成員となることによって我が国に持続的な繁栄と平和をもたらしてくれるものでした。この恵まれた環境の下で、戦後の再興とその後のさらなる発展を担った我が国の知識人たちは、諭吉の教えを活かして、その使命をよく果たしたと言えるのではないでしょうか。
(私)先生の話を聞いていると、日本人であることに改めて喜びと誇りを感じることができる気がします。
(先生)そう感じていただけると嬉しいですね。ただし、これからの時代も、諭吉の教えに沿って国家経営を行っていけば、それで問題ないかと言われると、躊躇を覚えざるを得ません。
(私)どうしてでしょうか。
(先生)いま申し上げた、戦後国際社会の共通理念、すなわち、国際協調主義と自由貿易体制と法の支配に対して懐疑的ないしは敵対的な勢力が各国で台頭しているからです。これは、一時的な現象なのか、それとも大きなレジームチェンジをもたらすものなのか、この問題については今後しっかりと考えていきたいと思いますが、まずは、その足掛かりとして、読者の皆さんも一緒に、松尾先生が読み解く『文明の衝突』論に耳を傾けてみることにいたしましょう。
(私)わかりました。ありがとうございます。