コラム

Also sprachen die alten Freunde

――G to G: 孫達に見せたい昔の映画――
弁護士 住田邦生

1.孫達に見せたい昔の映画

私は、草野耕一先生の大学時代の同窓生として御交誼を得ている弁護士です。
オペラ、バレエ、ミュージカルの鑑賞に続けて、今回は、G to G(爺 or Grandfather to爺 or General audience)ベースで、私の13歳、10歳、6歳の孫達が成年に達するまでに、ぜひ見せたいと思う昔の映画について触れたいと思います。

私が孫達にぜひ見せたい昔の映画を3つ挙げると、

  • 1942年公開の「カサブランカ」
  • 1953年公開の「ローマの休日」
  • 1988年公開の「ニュー・シネマ・パラダイス」

です。
「カサブランカ」や「ローマの休日」の公開以前から、おそらく1960年代頃までは、映画は多くの観客を惹きつけ、観客の人生に影響を与え得るメディアだったように思います。
現在のような精細な4K画像等の大画面のカラー・テレビ放送やインターネットによる動画配信サービス等がなかった当時、自分の住んでいる場所と異なる国内や外国の都会や田園、辺境等の視覚的・聴覚的情報を鮮明に与えてくれる数少ないメディアであり、当時、映画に出演していたのは、「会いに行けるアイドル」ではなく、隔絶された世界に住んでいるとしか思えなかった憧れの対象の「映画スター」であり、クロースアップやソフト・フォーカス、計算された陰影のコントラストなどの映像技術を駆使して繰り広げられる映画の物語は、小説やラジオ放送などよりも、はるかに鮮烈で、具体的な印象を与えるもので、大きな説得力を持ち、観客に夢や希望を与え、人生のいろいろな問題を考えさせることもあり得るものでした。

ただ、映画は、一般人にとっては、当該映画が上映されている日時にその映画館に足を運び、必ずしも安価ではない入場料を支払わなければ、見られないものでした。
どんなに見たい映画があっても、地理的には、自分の行動範囲の中に、そして時間的には、自分の都合のつく日時に、上映している映画館がなければ、見られませんでした。
また、観客の疲労度、集中力の持続時間(休憩を挟むことも考えられますが。)等を考えると、映画の上映時間は、通常、長くても3~4時間前後という制約を受けます。

現在の動画配信サービスを利用すれば、それぞれの家庭で、4K等、高精細の画像を50インチ以上の大画面等のモニターで、高音質のスピーカーを使い、任意の時刻に、豊富な番組の中から選択して、座ったり、寝そべったり、テーブルの上に足を載せたりするなど任意の姿勢で、一人で、カップルで、または友人・知人と一緒に多数で、静かに、または騒ぎながら(?)、望む場合は、途中で自由に中断して、飲み物を飲んだり、ストレッチをしたり、メール・チェックをするなどした上で、鑑賞することができ、番組によっては、登場人物が話す言語の種類(日本語、英仏独語、中国語、韓国語等)や字幕の有無・種類を選択することもでき、気になる箇所があれば、その部分だけ再生することも可能で、制作する側も、シリーズ物として、映画館で上映される映画の時間的制約をはるかに超えて、人物描写や様々なエピソードに十分な時間を使って、物語を創ることが可能です。
例えば、昨年、話題になった映画「国宝」を例にとれば、主人公らが演じる歌舞伎の演目すべてを稽古や舞台稽古を含めて映して、あらかじめ山場となる場面での見どころ、その演目の衣装や大道具・小道具、照明等を紹介した上、本番の舞台を省略なしに全幕通しで映し、歌舞伎の舞台以外でも主人公らの人物像を示すエピソードも丁寧に時間をかけて盛り込んだシリーズ物の作品とすることが考えられます。シリーズを通して観終えると、歌舞伎の主要作品は観ている、いっぱしの歌舞伎通が出来上がることになります。もっとも、そういう作品ですと、出演する俳優さんには、歌舞伎役者並みの踊りの技術等が要求されそうです。

映画と映画館は、どこに向かうのでしょう?
一つは、65インチ~100インチといった家庭用の大画面モニターでも物足りず、どうしても劇場で舞台を鑑賞するのと同様の大きなスクリーンで観たいというオペラ、バレエ、歌舞伎などの舞台芸術等を、大きなスクリーン、劇場の観客席で聴く生の音響に匹敵するような上質の音響で提供してくれるメディアという方向性が考えられます。
また、大画面で、側面や背面からの音響を含む立体的な音響を駆使し、観客席の椅子を動かしたり、劇場内の空気の流れなども使ったりして、冒険を仮想的に体験する遊園地的なエンタテインメントも考えられます。

高齢の映画ファンとしては、上映時間の制約等、映画の制約を踏まえた上で、今後も、多くの人の人生に影響を与えるような優れた映画が生まれてくることを望みたいと思います(映画館で見逃したときは、動画配信サービスで観られるといいな、と思います)。

2.「カサブランカ」

2.1.あらまし

監督:マイケル・カーティス
制作:ハル・B・ウォリス
音楽:マックス・スタイナー
なお、挿入歌のAs Time Goes Byは、1931年にハーマン・フップフェルドが、別なブロードウェイ・ミュージカルのために作曲したものを使用
出演:(リック・ブレイン役)ハンフリー・ボガード
(イルザ・ラント役)イングリッド・バーグマン
(ヴィクター・ラズロ役)ポール・ヘンリード
受賞:1943年アカデミー賞、作品賞、脚本賞、監督賞等

あらすじ

第2次世界大戦で枢軸国側が優勢であった1941年12月、親独ヴィシー政権下のフランス領モロッコの都市カサブランカには、ヨーロッパの戦災を逃れた人の多くが、中立国のポルトガル経由でアメリカへの渡航を図ろうとして集まっていた。

主人公であるアメリカ人のリックは、1940年6月のパリ陥落の際、パリから脱出して、カサブランカに来て、サロン「カフェ・アメリカン」を経営している。パリ脱出の当日、恋人だったイルザが理由を告げずに去ってしまい、リックは心に傷を負っている。

カサブランカに向かう列車の中で、ドイツ軍のクーリエが殺害され、ポルトガルへの渡航などに使える白地の通行証2通が強奪される事件が発生し、犯人は、ナチス・ドイツに対する抵抗運動の指導者ラズロとその夫人にその通行証を高額で売りつけるため、リックのサロンで待ち合わせ、リックに一時、通行証を預けるが、ラズロらに通行証を売り渡す前に警察に逮捕されてしまい、警察の房で、通行証の所在を秘匿したまま死亡する。

ラズロの夫人はイルザで、サロンでリックと再会する。

ラズロは、アメリカに渡航して抵抗運動の指導を続けようとしており、ブラック・マーケットでポルトガルへの渡航書類の手配を頼むが、ナチス・ドイツとフランスの警察は、ラズロの米国渡航を許すはずがなく、手配はできないと断られ、その際、リックが問題の通行証を持っているはずだと聞かされる。

ラズロはリックに通行証の買取りを申し込むが、拒否される。そこで、イルザは、夜間、サロンの階上のリックの部屋に赴き、通行証を渡してくれるように説得を試み、リックが拒否すると、持参した拳銃を向けて脅し取ろうとする。しかし、彼女は、引き金を引くことはできず、リックに対し、パリでは、夫であるラズロがナチス・ドイツにより殺害されたと誤解していたため、リックと恋愛関係に落ちたこと、パリ脱出の直前、ラズロが生きていることを知らされ、リックの下を去ったこと、リックに対する愛は変わっておらず、もう彼から去ることはないことを伝え、2人は抱き合う。

ラズロは、外出禁止令を破ったという理由で警察に逮捕される。

リックは、警察署長に対し、リックが通行証を死んだ犯人から預かっており、ラズロが通行証を欲しがっているので、ラズロを釈放すれば、サロンで、リックがラズロに通行証を渡し、その現場で、警察署長にラズロをドイツ軍クーリエ殺害、通行証強奪という重大な事件の共犯者として逮捕させ、警察署長としては大きな手柄となり、リックとしてはラズロに邪魔されることなく、イルザと共に、ポルトガルに脱出する計画であると話して、協力を求め、賛同させる。

警察署長は、リックの申し出に従ってラズロを釈放し、その日の夜、サロンで、リックがラズロに通行証を渡す現場でラズロを逮捕しようとするが、リックに拳銃を向けられて脅され、リック、ラズロ夫妻、警察署長の4人で空港に赴く。

空港で、リックは、イルザに、ラズロと共にポルトガル行きの飛行機に乗るように説得し、戸惑うイルザをラズロと共に送り出す。

ドイツ軍の大佐が駆け付けてきて、ラズロらの逃亡を邪魔しようとするが、リックは、大佐を射殺する。

警察署長は、実は、反ナチス・ドイツの抵抗運動に共感を持っており、ドイツ軍の大佐を射殺してラズロたちをナチス・ドイツの追求から逃してやったリックの罪を咎めることなく、しばらくカサブランカから離れるように勧める

2.2.推しポイント

2.2.1.自己犠牲/やせ我慢の愛

この映画では、リックはイルザを心の底から愛しているのに、イルザをナチス・ドイツの追求から守るため、
If that plane leaves and you’re not with him, you’ll regret it.
Maybe not today, not tomorrow, but soon, for the rest of your life.
などと心にもないことを言って、(ソフト・フォーカスで美しく撮影されている知的な美女の)イルザをカサブランカから脱出するように懸命に説得しようとします。観客は、その自己犠牲・やせ我慢の愛に痺れさせられます。

イルザが”But what about us?”というと、リックは、
We’ll always have Paris.
と答えるのですね。
イルザの目には涙が光ります。
この映画は、第2次世界大戦の最中の1942年に公開されていますので、反ナチス・ドイツのプロパガンダが随所に露骨に盛り込まれ、愛する人を守ろうとするリックの姿を格好良く描いたこの映画に共鳴して、戦線に身を投じることを決心した若者も少なくないのではないでしょうか。

リックを演じるハンフリー・ボガードは、決して(映画「ローマの休日」のグレゴリー・ペックのような)美男、2枚目、イケメンではないと思いますので、イケメンではない観客としても共感しやすいと思いますが、イルザもリックを愛しているのに、リックが彼女を守るために懸命に説得しようとするところが格好良いのであって、イルザから想われていない場合には、単なるgood riddanceとなり、全く、別なストーリーとなります。

2.2.2.洒落た台詞

この映画の魅力のひとつは、主人公らの洒落た言い回しだと思います。

①Here’s looking at you.

まず、この映画の日本語字幕の「君の瞳に乾杯!」という名訳で有名なこの台詞。
この映画の中では、リックは、この台詞を4回、使っており、回想シーンのパリのアパルトマン内で2人で乾杯するとき、パリ陥落の日、カフェ・オーロラで、ヴーヴ・クリコのシャンパーニュで乾杯するとき、イルザがサロンの上階のリックの部屋に書類を奪いにやってきたとき(リックの手には、ワイングラスがあります。)、最後は、空港で、別れの時に(このときは、ワイングラスなどはありません。)、ということで、原則として、乾杯の時の台詞として使われているようです。
ただ、「君の瞳に乾杯」を逆に直に英語にすれば、”Here’s to your health.”とか”Here’s to our friendship”のように、”Here’s to looking at you.”と”looking”を動名詞として使って「君を見ていることに乾杯」という表現になるのではないかと思います。
here is + ingの表現は、wishingやhopingを使って、
Here’s wishing you a safe trip.
Here’s hoping all your dreams come true.
というのはあるようですが、これは、例えば、
Here’s a glass of champagne/wine/sake with which I would like to propose a toast wishing you a safe trip
という文のうち、話者が捧げ持っていることで明らかなa glassやその姿勢や動作から明らかなpropose a toast 等の部分が省略された短縮形と解されるとすれば、上記の例文のwishing やhopingは副詞句を作る現在分詞と解されます(「安全な御旅行を望みながら」「あなたの夢がすべてかなえられることを祈念しつつ」)。
”Here’s looking at you.”でも同様に”looking” は現在分詞と解されるとすると、厳密には「君を見ながら/君を見つつ」乾杯というような意味合いでしょうか?
米国人のNative speakerである知人に尋ねたところ、”Here’s looking at you.”は、映画「カサブランカ」等を通じて余りにも有名になっている表現なので、乾杯のときの台詞であれば、”to“ なしで全く違和感なく使えるとのことでした。

②昨夜のこと、今夜のこと

リックは、遊んだ相手の女性イヴォンヌに熱を上げられるのですが、その彼女との会話が洒落ています。

イヴォンヌ:Where were you last night?
リック:That’s so long ago, I don’t remember.
イヴォンヌ:Will I see you tonight?
リック:I never make plans that far ahead.

③国籍:酔っ払い、ロンドン、ニューヨーク

ドイツ軍大佐らとリックとのサロンでの会話も洒落ています。

ドイツ軍大佐:What is your nationality?
リック:I’m a drunkard.
ドイツ軍大佐:Are you one of those who can’t imagine Germans in their beloved Paris?
リック:It’s not particularly my beloved Paris.
ドイツ軍将校:Can you imagine us in London?
リック:When you get there, ask me.
ドイツ軍大佐:How about New York?
リック:Well, there’re certain sections of New York that I wouldn’t advise you to invade.

④上品な(?)脅し文句

ドイツ軍大佐がイルザに対して、いうことを聞かないとラズロの命が危ないと言って脅すときの言い方も洒落ていると思います。

Perhaps you have already observed that in Casablanca human life is cheap.

2.2.3.台本の小さな「傷」

①通行証

リックは、警察署長に対し、リックが殺人犯から受け取って隠し持っているドイツ軍の通行証をラズロに渡し、その場で、警察署長にラズロをドイツ軍クーリエ殺害、通行証強奪事件の共犯者として逮捕させた上、その通行証を使って、リックがイルザと共にカサブランカから脱出するという計画を話しますが、結局は、リックはカサブランカに残り、愛するイルザとその夫ラズロに通行証を使わせて逃がしてやるという急展開の終盤を迎えるのですが、警察署長がラズロを逮捕する際、通行証強奪等の事件とラズロを結びつける重要な証拠である通行証を、その場で押収しないということはあり得ないと思います。
また、警察署長は、ドイツ軍大佐らに対して、ラズロが通行証を持っているとして逮捕したのに、強奪された通行証を回収しなかったことについて、言い訳することは不可能だと思います。
そうすると、警察署長が、リックが通行証をラズロに渡してラズロを逮捕させた上、その通行証を使ってイルザと共にカサブランカから脱出するというリックの計画をおかしいと思わなかったはずはありません。
また、警察署長は、事前にリックからラズロに怪しまれないように、ラズロの釈放後、尾行を付けないようにと言われていたとはいえ、ラズロを逮捕するのに、一人でリックのサロンにやってくるのです。
ここも不自然で、ラズロを逮捕し、警察署に護送し、留置しなければならないのですから、この映画で、警察署長が、そのための要員をサロンの近くに待機させておかず、ただ一人でリックのサロンに赴いたのは、リックが、待機していた警察の要員に邪魔されずに、一人で警察署長を脅して空港に行き、劇的なイルザとの別れを演じる便宜のため、としか言いようがありません。

なお、この映画では、仏領モロッコからポルトガルに向かう国際航空便への搭乗券の入手時期、手続が不明です。当時の国際航空便は、いつも空席があり、市内を走るバスなどのように、離陸直前に、簡単に搭乗券が入手できたのでしょうか?
もしも、リックが事前にラズロ名義とイルザ名義で搭乗券を入手する手続きをしていたら、警察は、ドイツ軍の意を受けて、ラズロがブラック・マーケットで手に入れた書類などでカサブランカから脱出することを妨げるため、航空会社にラズロらの搭乗券入手について警察に通報するように手配していたはずではないでしょうか?

このように冷静に検討すると台本にはおかしな点があるのですが、この映画は、映画館で、終盤の息もつかせないような急展開に乗せられて、リック、イルザ、ラズロはどうなるのだろうとドキドキ、ワクワクしながら観て、細かなことにはこだわらずに、終映後は、リックの自己犠牲の愛の格好良さに酔いながら、リックの表情や姿勢を真似て、渋い表情で、できればトレンチコート姿で、映画館を後にすればよいのであって、自宅で、DVDや動画配信サービスで、冷静に、逆戻りするなどしながら観るべきものではない、ということはいえそうです。
ただ、映画館で、たまたま台本の不合理な点等に気付いてしまった観客が、せっかくの映画の急展開に乗せられて映画を楽しむことができなくなることも考えられますので、台本は、できるだけ吟味してもらいたいと思います。

②リックとイルザの大人の自制?

リックがラズロとイルザをカサブランカから空路脱出させる前の晩、イルザは、リックから通行証を奪おうとして拳銃を持ってリックの部屋に行くのですが、結局、引き金を引くことはできず、リックへの愛を打ち明け、2人は抱き合います。
この後、場面が転換しても、リックは白いタキシードとボウタイ姿で、イルザも同じ服のままで髪型も含めて乱れはなく、大人の男女が2人だけの部屋で抱き合った後、それ以上の行為に進んだ形跡はないのですが、少し、不自然に思えます。
この点は、英語版Wikipedia Casablanca (film) - Wikipediaによれば、当時、映画会社間で定められたHays Codeとして知られているMotion Picture Production Codeという自主規制の規律があり、既婚の女性が、夫を捨てて他の男性の下に走るという筋立ての映画の制作を禁じていたそうですので、リックとイルザの大人の自制も、このコードに沿ったものかも知れません。あるいは、このコードなどにより、制作者側は、リックとイルザがその晩、結ばれたということを露骨に示唆する演出はできないので、実際に何が起こったかは、観客の想像にお任せするということでしょうか(私は、個人的には、あの状況で、潤んだ瞳で見つめてくるイングリッド・バーグマンさんに対して、意図的にブレーキとアクセルを踏み間違えることはあっても、途中でブレーキをかけることは不可能だと思います。「己の欲するところに従って矩に特例」)。
ただ、このコードに沿って、リックの自己犠牲的なイルザとの別れという劇的な終幕が演じられたことで、この映画は観客の胸を打つ名作になったのかも知れません。

3.「ローマの休日」

3.1.あらまし

監督・制作:ウィリアム・ワイラー
音楽:ジョルジュ・オーリック
出演:(アン王女役)オードリー・ヘプバーン
(通信社記者ジョー・ブラッドレイ役)グレゴリー・ペック
(カメラマン役)エディ・アルバート
受賞:1953年アカデミー賞 主演女優賞、衣装デザイン賞、原案賞等

あらすじ

欧州のある国の王位継承者であるアン王女は、欧州各国を親善訪問する公務を遂行中、最後の訪問先であるローマの自国の大使館内で、過密なスケジュールに追われ、訪問先での言動さえ細かく規定されている全く自由のない生活への不満が高まり、ヒステリーの発作のように泣き叫び始めたため、王女付きの主治医は鎮静剤を投与し、眠らせようとする。ところがアン王女は、鎮静剤の効果が表れる前に、大使館から密かに抜け出してしまう。

アン王女は、夜のローマを彷徨ううち、鎮静剤の効果で、市内の遺跡を囲う縁石の上で眠りに落ちる。そこにアメリカ人の通信社記者のジョー・ブラッドレー(以下「ジョー」)が通りかかり、若い女性が街中で眠っているのを見かね、タクシーで彼女をその自宅に送ろうとするが、朦朧状態のアン王女は、ふざけて住まいはコロシアムだなどと言い張るので、仕方なく介抱のため自宅のアパートに運ぶ。

翌日、ジョーは出社した勤務先の通信社支局で地元紙の写真記事を見て、自宅で寝ている女性がアン王女だと知り、アン王女のお忍びのローマ体験という大スクープをものにしようと、友人のカメラマンを電話で呼び出し、アパートを出たアン王女を尾行する。

アン王女は、ローマ市内を散策し、美容院で髪の毛を短くカットするなど、自由な時間を楽しむ。ジョーは偶然の再会を装ってアン王女に近づき、ローマ案内を申し出る。

ジョーと一緒に「真実の口」などローマの名所旧跡を巡り、テベレ川に浮かぶ船上でのパーティに参加するなどして自由を満喫したアン王女は、ジョーに心惹かれるが、ジョーのアパートに戻った後、ラジオのニュースで、大使館では、アン王女が行方不明となっていることを隠して、アン王女は病気で臥せっていると発表したため、多くの国民がアン王女の病気を心配していることを知り、祖国と王室への義務を果たすために大使館へ戻ることを決める。

ジョーはアン王女の尊厳と名誉を守るため、大スクープを捨てて、アン王女のローマでの行動と友人のカメラマンに撮影させた一連の写真等を記事にしないことを決心する。

翌日、アン王女が病気から快復したとして、大使館でアン王女の記者会見が開かれ、アン王女は、記者として列席しているジョーやカメラマンに気づき、初めて彼らの正体を知る。

記者会見でアン王女が諸国間の友好関係について質問され、“I have every faith in it, as I have faith in relations between people.”と答えた際、ジョーは、”May I say, speaking from my own press service, we believe your highness’ faith will not be unjustified.”と発言して、アン王女のローマでの行動の秘密を守ることを伝える。

記者会見後、アン王女は列席した記者全員と謁見することを申し出、ジョーの番が来たとき、アン王女とジョーは万感の思いを込めて握手し、互いを見つめ合う。

謁見後、王女は奥の間へ消え、記者たちも去り、一人広間に残ったジョーもゆっくりとその場を離れる。

3.2.推しポイント

3.2.1.オードリー・ヘプバーンの魅力

オードリー・ヘプバーンは、1929年5月4日生まれで、母はオランダ人貴族でバロネスの称号を持っており、5歳の時からバレエを習い、職業としてのバレエダンサーも考えていたそうです。
また、第2次世界大戦当時は、ナチス・ドイツの占領下にあったオランダに在住しており、反ナチスのレジスタンス運動に協力していたとのことです。
この映画の大ヒットは、彼女の魅力に支えられているところが大きかったと思います。
彼女に流れている貴族の血筋が、アン王女役を演じることを自然に見せているのかも知れません。

3.2.2.ノブリス・オブリージュ

この映画では、王女の義務や制約に飽き飽きした若いアン王女が、ジョーとローマを巡るうちに、人を愛することに目覚め、最終的には、それでも個人的な恋愛よりも、王女としての義務、責任を果たさなければならないというノブリス・オブリージュを受け入れるという成長の過程が描かれています。
大使館からの夜間の脱走後、翌日の夜、大使館に戻ってきた彼女は、はるかに年長の大使や御付きの女性と堂々と渡り合い、
“You have my permission to withdraw.”
と告げて、それ以上、何も言わせずに引き下がらせるなど、大人の王女に成長しています。

3.3.3.ジョーの自己犠牲

アン王女の名誉や声望を守るため、大スクープとなるものではあっても、彼女のローマで
の行動を記事にしないことにしたジョーの行動も、一種の愛のための自己犠牲であり、胸を打たれるものだと思います。
それを記者会見の場のやり取りやアン王女とジョーの表情で表現しているところが、この映画の推しポイントのひとつです。

4.「ニュー・シネマ・パラダイス」

4.1.あらまし

監督・脚本:ジュゼッペ・トルナトーレ
制作:フランコ・クリスタルディ
音楽:エンニオ・モリコーネ、アンドレア・モリコーネ
出演:(トトことサルヴァトーレ・ディ・ヴィータ役:少年期)サルヴァトーレ・カシオ
(同上:青年期)マルコ・レオナルディ
(同上:中年期)ジャック・ぺラン
(映写技師アルフレード役)フィリップ・ノワレ
(エレナ役:若年期)アニェーゼ・ナーノ
(同上:ディレクターズ・カット版の中年期)ブリジット・フォセー
受賞:1989年アカデミー賞 外国語映画賞等

劇場公開版(上演時間約123分)とディレクターズ・カット版(上演時間約173分)がある。

あらすじ

(劇場公開版)

ローマ在住の著名な映画監督サルヴァトーレに故郷のシチリア島の僻地の村に住む母から電話があり、彼の親しい恩人・知人のアルフレードの訃報が伝えられる。

サルヴァトーレは、幼いころ、「トト」と呼ばれており、村の広場にある映画館に入りびたり、映写技師のアルフレードと親しくなって、映写機の使い方等を教わっていた。

ある晩の映画上映中、当時のフィルムは燃えやすい素材で作られていたため、フィルムが加熱されて火災となり、映画館は全焼し、アルフレードは、サルヴァトーレが火の中から彼を懸命に引きずり出したため、一命をとりとめたものの火傷で視力を失ってしまう。

サルヴァトーレは、建て直された映画館(「新パラダイス座」)で、子供ながら、映写技師として働き、家計を支える。

青年となったサルヴァトーレは、8ミリのムーヴィー・カメラを入手し、撮影するうち、駅で見かけた銀行家の娘の美少女エレナを撮影し、彼女に恋するようになる。

エレナは、最初はサルヴァトーレの想いを拒否するが、サルヴァトーレは、アルフレードから、王女に恋した兵士が100日間、王女を待ち続けたという寓話を聞き、仕事の後、ずっとエレナの部屋の下の街頭でエレナを待つ。

エレナは、100日が経過してサルヴァトーレがエレナへの想いを諦めようとしたクリスマスの夜、サルヴァトーレの仕事場の映画館に一人でやってきて、サルヴァトーレの想いを受け入れる。

サルヴァトーレは兵役を務めなければならず、入隊し、除隊後村に帰ると新パラダイス座の映写室には別の映写技師がおり、エレナは音信不通となっていた。

アルフレードは、サルヴァトーレに「若いのだから外に出て道を探せ、村にいてはいけない、そして帰ってきてはいけない」と言いきかせ、サルヴァトーレは、村を出てローマに向け旅立つ。

30年間が過ぎて、ローマで映画監督として成功し、付き合っている恋人はいるが、未だに独身のサルヴァトーレは、アルフレードの葬儀に出席するため、年老いた母の待つ故郷の村に帰る。

そこで彼は、母から、ローマの彼に電話した時、彼を本当に愛していると思えるような女性の声を聴いたことがないと言われ、母が保存しておいてくれた8ミリのムーヴィー・カメラのフィルムを映写して、昔、駅頭で撮影したエレナの姿を見て思いにふける。サルヴァトーレは、テレビの普及に押されて観客が少なくなったため「新パラダイス座」がすでに閉館し、建物の解体も近いことを知る。サルヴァトーレはアルフレードの未亡人から、彼に遺した形見のフィルムを渡される。

新パラダイス座の爆破による解体を見届けた後、ローマに戻ったサルヴァトーレはそのフィルムを映写させる。フィルムは、昔、アルフレードが、当時のカトリック教会の厳しい検閲のため、上演を許されずに切り取った映画のキスシーンを繋ぎ合わせたもので、サルヴァトーレは、多くの映画のキスシーンを見ながら、追憶にふける。

(ディレクターズ・カット版)

(劇場公開版への変更点)

故郷の村に戻ったサルヴァトーレは、エレナがサルヴァトーレの幼馴染と結婚し、娘を儲けていることを知る。サルヴァトーレは、その幼馴染の電話番号を調べて、エレナに電話をし、再会を求めるが拒否される。しかし、サルヴァトーレが昔エレナと会っていた海岸にたたずんでいると、エレナが車でやってくる。エレナは電話では再会を断ったものの、会いたくなって、サルヴァトーレがいそうな場所を虱潰しに探して、その海岸にやってきたと話す。

サルヴァトーレはエレナに、30年前、彼が村を出る際、なぜ一緒について来てくれなかったのかと責めると、エレナはアルフレードに言伝てを頼んだが、アルフレードはサルヴァトーレが村を離れて自分の道を進めるようにするため、エレナがサルヴァトーレと別れるべきだという考えでおり、言伝てを断られたので、エレナの両親に隠れてサルヴァトーレからの連絡を受けるためのエレナの友人の住所とメッセージを書いたメモを映写室の壁に残したと話す。

エレナは、サルヴァトーレが監督した映画はすべて観ており、もしもサルヴァトーレが彼女と結婚していたら、それらの素晴らしい映画は撮れていなかっただろうと言う。

サルヴァトーレとエレナは、車の中でキスし、お互いの愛を確認する。

サルヴァトーレは解体が迫った新パラダイス座の埃だらけの映写室で、昔、エレナが残していたメッセージを読み、エレナに電話をするが、エレナは「あの夜の夢は忘れましょう。」と告げる。

新パラダイス座は、爆破・解体される。

サルヴァトーレはローマに戻り、映写室でアルフレードからの形見のフィルムを観る。

4.2.推しポイント

4.2.1.映画というメディアへのオマージュ

テレビ放送等の普及により映画館への来場者が少なくなり、「新パラダイス座」が取り壊されるというこの映画のストーリーのとおり、映画は、過去と同様の力を保ち得なくなっているものの、過去に多くの優れた作品が制作され、観客に夢や希望を与えるなどしてきた事実は消え去ることはなく、これからも、映画館での上映、動画配信サービスを通じての鑑賞、DVD・LD等を通じての鑑賞等を通じて、優れた映画が観客に強い影響を及ぼして行くと考えられます。
この映画は、そういう映画というメディア自体に対するオマージュであると思われます。

4.2.2.忘れ得ぬ恋

主人公で映画監督となっているサルヴァトーレは、独身を貫いており、劇場公開版では、主人公の母親が保管しておいてくれた昔の8ミリ・フィルムを映写して、若いエレナの姿を見て懐かしむ程度にとどまるのですが、ディレクターズ・カット版では、30年以上の時を経て、人妻となっているエレナに再会を求めるなどの行動に出ています。
「ナポリを見て死ね」”Vedi Napoli e poi muori.”という言葉がありますが、その「ナポリ」については、個人の主観的判断に拠るしかないので、初恋がその人の「ナポリ」であり、それ以上の相手に出会うことがなく、もう「ナポリ」は見てしまったという思いで、あとはただ人生の終わりを待つしかない、という人生も考えられます。
(この点については、「ナポリ」は見たと思っていたら、後で本当の「ナポリ」に出会ったということもあれば、後で本当の「ナポリ」に出会ったと思ったものの、恋愛の一時的な熱病から回復してみると、どう考えても本当の「ナポリ」ではなかったなど、様々な場合が考えられます。)
最愛の恋人であり、自分の人生に重大な影響を与えた人であっても、お互いに、別々の人生を歩んできて、今となっては、一緒に生きなおすようなことは考えられず、ただ、振り返り、離れて想うことしかできないサルヴァトーレの恋愛は、大好きな映画で、人生に重大な影響を与えられたとしても、観客として鑑賞するだけで、それ自体を生きることはできないという映画に似ているのかも知れません。

4.2.3.王女と兵士の寓話

推しポイントとは違うのですが、この映画の中で、アルフレードがサルヴァトーレに、王女に恋した兵士の寓話を聞かせており、それについて述べたいと思います。

兵士が王女に一目惚れし、兵士の熱意に心を打たれた王女は、兵士が100日間、王宮の庭で王女を待ち続ければ、兵士に身を委ねると約束します。
兵士は、その言葉を信じて、来る日も来る日も王宮の庭で王女を待ちます。
立ち尽くす兵士に鳥が糞をし、風雨に曝され、土埃を被った兵士は、それでも、王女を待ち続けます。
(ちなみに、その間、兵士としての職務上の義務にどう対処し、食事はどうしたのかなどについては、言及されていません。)
しかし99日目の晩、兵士は王宮の庭から立ち去り、戻ってこなかったというのです。
それでその話は終わり、アルフレードは、あと一晩待てばよかったのに、なぜ兵士は立ち去ってしまったのだろうとサルヴァトーレに尋ねます。

サルヴァトーレは、このアルフレードの話した寓話に触発されて、初恋の女性エレナに、映写技師補助の仕事が終わった後、100日間、毎日、彼女の家の彼女の部屋の窓の下に行って彼女を待ち続けると話して、100日間、待ったのですが、アルフレードが話した王女と兵士の寓話とは異なり、エレナは、相手の熱意だけではどうしようもない様々な公務上の義務・責任等を抱えた王女などではなく、若い学生であり、サルヴァトーレの熱意を受け入れて、2人は恋人となります。これは、若い時代にしかあり得ない出来事だったのだろうと思います。

アルフレードが話した寓話を前提とすると、兵士は、王女を本当に愛していたので、王女自身が心から望んでいないのに、王女が約束に縛られて、兵士に身を委ねるという結末は受け入れられないと考えたのだろうと私は思います。
それに、99日間、待ち続けたことで兵士の熱意は王女に伝わっていたはずなので、王女が兵士の想いを受け入れる気持ちになっていたら、兵士が立ち去った後からでも、王女が侍女などを通じて私室に彼を呼び出すことなどは容易だったはずです。でも、そうはならず、99日目に兵士が立ち去って、その後は何もなかったのですから、結果として、兵士は、王女の本当の心を確実に理解したはずです。
また、99日間の間、王女からは、兵士の夢の実現に期待を抱かせるような素振りは全く何もなかったことが窺われます。そうであれば、兵士としては、王女の本当の心を無理に誤解して、虚しい希望を抱き続けることはできなかっただろうと思われます。
兵士にできる最善の行動は、愛する王女を、彼女自身の言葉で追い詰め、不本意な行動をとらせたり、彼女自身の心に従って兵士の想いを拒絶し、彼女の言葉の信用性を失わせるような状況に追い込んだりせずに、100日間が経つ前に立ち去ることでした。
兵士には、そういう配慮が王女に伝わることで、それまでに王女の心がかなり動いていた場合には、最後の一押しとすることができるかもしれないという打算があったかも知れませんが、兵士の99日間の苦難、そして最後の一押しの努力も王女の心を動かすには足りませんでした。
(そもそも、お互いの関係を深め、愛を育てるには全く無意味な「100日間、王宮の庭に立ち続ける」という条件を設定すること自体からしても、王女が兵士との恋愛に積極的な気持ちを持っていなかったことが窺われますので、恋の熱病に冒され、正常な判断能力を失っていたと思われる兵士にはやや酷ですが、兵士はそれを察するべきだったと言えるかも知れません。)

また、王女からすると、99日間、王宮の庭で立ち続けた兵士は、王女への並外れた熱意を持ち、まじめで、馬鹿正直といえるほど、愚直・誠実な人柄であることは明らかになっていたと思いますが、王女が果たしてゆかなければならない内政・外交にわたる公務について有益な助言をしてくれ、宮廷内の様々な政治的駆け引きに一緒に対処し、手助けしてくれるような能力を持った男性でないことは明らかであったと思います。
(99日間、職務を離れて王宮の庭に立ち続けることができたということは、その兵士が、その所属部隊で不可欠とされるような人材ではなかったことが窺われます。)
王女が兵士に対し、100日間、待ち続ければ、身を委ねると言ってしまったことを後悔していたとしても、「綸言汗の如し」という格言のとおり、撤回はできないので、100日間が経過したら、自分自身の言葉に反する行動をとって噓つきという汚名を甘受するか、自分の本心に反するものではあっても兵士との約束を守るかという決断をしなければならなかったのですが、いずれにしても、王女としての尊厳を保ち、国民や王室に対する責任が果たすことは難しくなります。
王女は、99日目に立ち去って、王女を王女自身の言葉の義務から解放してくれた兵士の配慮を有り難く受け取って、二度と男性の熱意にほだされて軽々しい発言はしないように決意したものと思います。

5.ディレクターズ・カット版の配役(ちょっと残念)

サルヴァトーレが8ミリのムーヴィー・カメラで撮影した若いころのエレナ役のアニェーゼ・ナーノさんの生き生きとした利発そうな美少女という印象は余りにも鮮烈で、サルヴァトーレが恋に落ちたことを十分に納得させるものだと思います。
サルヴァトーレが30年後に彼女に再会したときのエレナ役は、おそらくその演技力が買われて、映画「禁じられた遊び」の子役等として有名なブリジット・フォセーさんが演じているのですが、骨格等からして顔立ちが全く違うので、エレナが歳を取った姿としては、外見上の違和感が禁じ得ません。
メイキャップの技術でアニェーゼ・ナーノさん本人を老けさせるか、あるいは、歳をとったアニェーゼ・ナーノさんとして外見上の違和感がない女優さんは見つけられなかったのでしょうか?
(2026年9月9日)