コラム

比べることで
見えてくるもの
第1回:「普通」

弁護士 細谷 夏生

1 自己紹介

Lettres de mon Bureauの読者の皆様、初めまして。今月から新たに連載させていただくこととなりました、細谷夏生と申します。

私は2015年に弁護士登録し(68期)、西村あさひ法律事務所(当時)でキャリアをスタートしました。その後、米国コロンビア大学ロースクールへの留学を経て、ニューヨークに本部を置く国連女性機関UN Womenで2年間勤務し、女性と少女に対する暴力とハラスメントの予防と対処に関わるプログラムの開発・運営に携わりました。2025年に西村あさひ法律事務所・外国法共同事業へ復帰し、現在は弁護士としての実務に加え、学会での研究活動や国際NGOのアドボカシー活動にも関わっています。

草野耕一先生と私の最初の出会いは、入所式の日にさかのぼります。入所式で、当時事務所のパートナーを務めていらっしゃった草野先生のスピーチを聞いて感動した私は、式の終了後、事務所の地下のコンビニでおにぎりを物色していました。すると、偶然、隣の陳列棚で野菜ジュースを選んでいた草野先生から声をかけていただいたのです。
それ以来、草野先生には、案件をご一緒させていただくだけでなく、ご著書を頂戴したり、研究内容についてご教示いただいたりと、折に触れて目をかけていただきました。

2 比べることで見えてくるもの

本連載のテーマは、「比べることで見えてくるもの」です。

「比べる」という言葉には、あまりよい印象がないかもしれません。現代では「他人と比べない」「自分軸を持つ」ことが大切だともよく言われます。(そういえば、「ナンバーワンよりオンリーワン」と歌って大ヒットした某アイドルグループの歌が、もう25年近く前のものだと、この原稿を書きながら気づきました。Time flies...)
もっとも、比較することは、何かや誰かの優劣を決めることだけを意味するわけではありません。
私自身、住む場所や仕事、普段使う言語、自分の置かれた立場が変わるたび、それまでいた場所と新しい場所とを比べてきました。以前は、何でも比較してしまうのは自分のあまりよくない癖なのではないかと思っていたこともあります。しかし、日々色々なものを比べた結果を書き留めたノートを読み返すと、異なるものの違いに戸惑いつつも何とか言語化を試みた記録の中に、自分がそれまで当然だと思っていたことが、実は当然ではなかったと気づいた瞬間がいくつも残っていました。

比べることで見えてくるのは、比べる対象だけではありません。
むしろ、それまで見えていなかった自分自身の輪郭なのかもしれません。
本連載では、私がさまざまな場所や立場の間を行き来する中で気がついた違いを改めて「比べて」、そこから何が見えてくるのかを考えてみたいと思います。

連載第1回であるこのコラムのテーマは「普通」です。

私が講演やセミナーで社会の変化と法制度との関係をお話しする際、草野先生が最高裁判事時代、選択的夫婦別姓をめぐる訴訟で執筆された反対意見を紹介することがしばしばあります。そこで示された、夫婦が異なる氏を名乗ることによって子に生じるとされる不利益の多くは、夫婦同氏が社会の標準となっていることを前提としたものである、という指摘は、私が「普通とは何か」を考える一つのきっかけになりました。
私たちは、ある状態が「普通」だから、それに合わせて生活しているのか。それとも、皆がそれに合わせて生活しているから、いつのまにかそれが「普通」になるのか。このコラムは、そのような疑問から始まります。

3 東京では誰も時刻表を見ない

子供の頃、私は神奈川県に住んでいました。都心に出るためには、まず東急東横線で渋谷駅まで行き、そこからさらに他の路線に乗り換えます。東横線は、ベッドタウンと都内を結ぶ典型的な通勤用路線で、当時は各駅停車、急行、通勤特急、特急があり(今はもっと増えました。)、途中の大きな駅では、電車同士の追い越しや待ち合わせが頻繁に行われていました。その結果、ダイヤはとても複雑で、たとえば日吉駅で乗るつもりだった通勤特急に乗り遅れる。次に来た各駅停車に乗ったものの、元住吉駅で後続の電車に追い越され、自由が丘駅では別の電車と待ち合わせる。ようやく渋谷駅に着いたときには、予定していた到着時刻を大幅に過ぎており、もうどう頑張っても予定には間に合わない。そのようなことは、決して珍しくありませんでした。
だから私は、どこかへ出かけるときには、到着したい時刻から逆算して時刻表を調べ、「何時何分に最寄り駅を出る、この電車に乗る。」と決めてから家を出ていました。
それは、10代の私にとって、外出するという動作の一部でした。「なぜ時刻表を調べるのか。」と考えたことすらありませんでした。

就職して都内に引っ越し、初めて一人暮らしをしたときの最寄り駅は、銀座線の神田駅でした。
東京メトロを日常的に使うようになって、私が最初に驚いたのは、駅を行き交う人の多さでも、PASMOよりも幅を利かせるSuicaの存在でもありません。
誰も時刻表を見ないことでした。

都心の地下鉄では、多くの場合、同じ種類の電車が短い間隔でやってきます。皆、Google Mapsで大体の所要時間を確認するだけで、具体的にどの電車に乗るのかを決めずに移動を始めます。
都心で育った同僚は、クライアントを訪問するときにも、当然のように言いました。
「約束の時間の○分前に事務所を出ようか。」
私は頷きながら、内心ではそわそわしていました。
何時何分の電車に乗るのだろう。一本逃したら間に合わないのではないか。乗った電車は途中で急行に追い越されないのだろうか。
けれども、同僚はそのようなことをまったく気にしていません。そして実際、問題なく目的地へ着くのです。

東京では、電車に乗る前に時刻表を確認しない。それが、ここでの「普通」だったのです。
それまでの私は、「時刻表を調べるのが自分の普通だ。」と思っていたわけではありません。東京で誰も時刻表を見ないことに気づいて初めて、自分がいつも時刻表を調べていたこと、その行動を当然だと思っていたことに気づきました。

私にとっての「普通」は、それが通用しなくなった瞬間に、初めて姿を現しました。

4 This is an accessible station!

平成の後期には、首都圏の駅でもバリアフリー化が進み、神奈川でも東京でも、主要な駅にはエスカレーターやエレベーターが設置されていました。
そのため、私には、物心ついて以来、松葉づえをついたり、大きな荷物を持っていたりする状態で出かけるときにも、目的地の駅にエスカレーターやエレベーターがあるかどうかを、事前に調べる習慣はありませんでした。周囲にも、そのようなことをしている人はいなかったと思います。
これもまた、20代までの私にとっての「普通」でした。

しかし、30代になり、留学のためにニューヨークへ渡った私は、到着早々、この「普通」が通用しない場面に直面しました。
留学開始前日、大きなスーツケースを2つ、背中には7kg近くあるバックパックを抱えてマンハッタンのターミナル駅に降り立った私の目の前にあったのは階段でした。
別の出口へ行っても階段。
さらに別の出口へ回っても、やはり階段。
どこかにエスカレーターかエレベーターがあるはずだと思って駅の中を歩き回りましたが、見つかりません。
呆然と立ち尽くす私に同情した通りがかりの親切な人がスーツケースを担いで地上まで持ち上げてくれて事なきを得たのですが、私は、助かったという安堵と同時に、納得できない気持ちを抱えていました。ここはバリアフリーの発祥の地たるアメリカの中心地、ニューヨークのマンハッタンである。それなのに、なぜこんなに大きな駅にエレベーターもエスカレーターもないのだろう。みんな困るじゃない!

しかし、その後の数週間で、私はあることに気づきます。
マンハッタンのsubwayでは、エレベーターやエスカレーターが設置されている駅に近づくと、電車内に「This is an accessible station.」というアナウンスが流れるのです。

日本で私が利用していた鉄道では、停車駅にエレベーターやエスカレーターが設置されていることをわざわざ社内放送することはありませんでした。敢えて言うまでもない当たり前のことだったからです。けれどもマンハッタンでは、それは案内すべき重要な情報でした。
駅にエレベーターがあることは、当然の前提ではない。階段を利用できない事情がある人は、あらかじめ「accessible station」を調べ、それを基準に移動経路を組み立てる。
それが、マンハッタンの「普通」だったからです。

そこで異なっていたのは、駅の標準的な設備というよりも、外出時に何を事前に調べることが求められるかという、生活の前提でした。
日本にいたときの私は、駅の構造を事前に調べる必要など感じていませんでした。それは、どのような駅にも必要な設備があると考えて敢えて調べなかったわけではありません。
当時の私は、そもそも、そのような問いを持っていなかったのです。

5 ハクナマタタ…?

UN Womenで勤務していた頃、私はしばしばニューヨークを出て各国に滞在し、Regional Officeや現地スタッフと仕事をしていました。

タンザニアへ1か月ほど出張した際、各国の大臣や大使などが出席する国際会議を開催することになりました。重要な会議なので、私たちは現地スタッフに対し、3か月前から会場の予約を依頼していました。
しかし、会議が1週間後に迫ったある日、最終確認を行っていたところ、会場がまだ確保されていないことが判明したのです。
私は耳を疑いました。
明日には出席者に最終案内を出す予定になっている。それなのに、肝心の会場が決まっていない。私は大臣や大使宛てのメールに何と書けばよいのでしょう。「Venue: TBD」とでも?いやいやいや!No kidding!!

パニックになりかけた私が担当者に状況を確認すると、返ってきたのは、申し訳なさそうな説明でも、今後の対応策でもありませんでした。
「ハクナマタタ!」
問題ない、大丈夫だという意味のスワヒリ語で、日本ではライオンキングのミュージカルで有名です。
本当にまったく問題がないような笑顔でそう言われ、私は言葉を失いました。
会議後はたった一週間後なんだけど、と念を押しても、向こうは相変わらず落ち着いています。むしろ、私がなぜそこまで慌てているのか、不思議に思っているようにさえ見えました。

もちろん、その現地スタッフも会場を確保する必要がないと考えていたわけではありませんでした。ただ、期限に対する感覚も、問題が生じたと判断する時点も、そこから人を動かす方法も、私がそれまで働いていた環境とは違っていたのです。
私は、締切を守ることは仕事をする上での普遍的な前提だと思っていました。しかし、実際には、「締切を守る」とは具体的にどの時点で何が完了していることを意味するのか、遅れをどの程度深刻に受け止めるのか、いつ誰に報告するのかといった理解は、必ずしもどこでも同じではなく、少なくとも私と彼女との間では大きく異なっていたのです。

それ以来、私は、自分の考える「普通」を相手も共有していることを前提に仕事を進めるのではなく、何がいつまでに必要なのかを、以前よりも細かく確認することを意識するようになりました。それによって、私がマネジメントするプロジェクトはそれまでよりも円滑に進むようになりました。

もっとも、それによって私がなんでも「ハクナマタタ!」と笑いとばせるようになったかというと、残念ながらそうではありません。会場が決まっていないまま会議まで一週間を切れば、今でもやはり慌てると思います。他の社会の普通を知ることは、その普通を無条件に受け入れることとは違うのです。

6 The Tokyo Rule

日本へ帰ってきてからは、反対方向の戸惑いも経験しました。

留学中やUN Womenでの勤務中には、時間があれば旅行や出張に行き、多くの国や地域を訪れました。日本以外の場所では、道や店の中で知らない人と目が合ったときには、小さく微笑んだり、軽く挨拶をしたりして、敵意がないことを示すことがよくありました。そして、皆がそうする環境で毎日暮らしていたので、私もいつのまにか、無意識に同じようにふるまうようになっていました。

帰国してしばらくたった頃、東京の路上で知らない人と目が合い、いつものように微笑みました。
相手は、明らかに戸惑った顔をしました。
その表情を見て、私は自分の方が慌てて目をそらしました。相手にしてみれば、知らない人が突然こちらを見て笑ったのですから、不審に思ったのでしょう。東京の「普通」に照らせば至極当然です。

東京では、知らない人と目が合ったら、微笑みかけたりせずにそっと視線を外す。それは冷たさではなく、相手の領域に踏み込まないための振る舞いでもあります。

私は海外で別の「普通」を身につけ、日本へ戻ったことで、今度はもともと知っていたはずの「普通」から少しはみ出していたのでした。

7 「普通」が姿を現すとき

時刻表を調べてから家を出ること。
駅にはエスカレーターかエレベーターがあること。
合意した期限までに仕事を終えること。
知らない人と目が合ったときに微笑むこと、あるいは微笑まないこと。

どれも、それ自体は小さなことです。

しかし、こうした小さな行動の積み重ねによって、私たちは毎日、さほど迷うことなく生活しています。外出するたびに移動の仕方を一から考え、仕事を依頼するたびに締切という言葉の意味を交渉し、誰かと目が合うたびにどのような表情をすべきか検討していたら、日常生活はひどく疲れるものになるでしょう。
「普通」は、そのような判断の多くを省略してくれます。
それは、法律や契約書の条項のように明示されているわけではありません。それでも、同じ社会に暮らす人々は、周囲の行動を見ながら、何を調べるべきか、何を言わなくてもよいか、どのように振る舞えば大きな摩擦を生じさせずに済むかを学んでいきます。
そして、それをいつ学んだのかも覚えていないまま、「世界とは大体こういうものだ。」と考えるようになります。

だから、自分の普通は、自分には見えません。

時刻表を見なくても電車に乗れる人に出会ったとき。
大きな荷物を抱えて駅の地下3階で立ち尽くしたとき。
会議の1週間前にして「開催場所未定」と書かれた招集通知を出さざるを得なくなったとき。
知らない人に不審そうな表情を返されたとき。

自分の予想と現実との間に小さな衝突が生じて、初めて、そこに何らかの前提があったことに気づきます。

「普通」とは、守られている間は透明なルールです。
壊れたときに初めて姿を現し、私たちに、自分が何を当然だと思っていたのかを教えます。

この点で、「普通」は法律や契約にも少し似ています。

法律も契約も、日常生活の中で常に意識されているわけではありません。問題なく機能している間、私たちはその存在をほとんど気にせずに暮らしています。摩擦が生じ、意見が対立し、それまでどおりには進まなくなって初めて、「この場面にはどのようなルールがあったのか」を確認します。

もっとも、両者は同じではありません。
法律や契約の多くは文字で示されていますが、「普通」はどこにも書かれていません。誰が決めたのかも分からず、どこまで通用するのかも、破ってみるまで分からないことがあります。
それにもかかわらず、「普通」は時として、法律や契約以上に強く、私たちの行動を方向づけます。

だからこそ、法律や契約を考えるときにも、その背景にある「普通」を見落とすことはできません。ある制度が作られたとき、人々は何を当然だと考えていたのか。その当然は、現在も同じように共有されているのか。社会の前提が変わった後も、制度だけが以前の形を保ってはいないか。
法律家は、既に存在するルールを正確に理解し、適用することを求められます。しかし同時に、そのルールが前提としている「普通」を見つめ直すことも、法律家の仕事の一部なのだと思います。

私にそのことを教えてくれたのは、法律の本でも判例でもありませんでした。
時刻表の存在を知っているかどうかすら怪しい同僚であり、エレベーターのない駅で困り果てた私を助けてくれた親切な人であり、期限を過ぎたタスクが山積みでも「ハクナマタタ」と笑って帰宅する現地のスタッフであり、東京の路上で突然微笑みかけてきた私にはっきりと戸惑った表情を見せた人でした。

過去十数年分の私のノートには、自分の「普通」が通用しなかった日の驚きが沢山書き留められています。
しかし、今改めてそれらを読み返してみると、本当に興味深いのは、「普通」が違うことそのものではないように思います。

私たちは、自分の中に「普通」があることすら、普段はほとんど意識していない。
自分の「普通」が通用しない場面に出くわし、戸惑いながらも比べて考えて初めて、それまで透明だった自分自身の「普通」が見えるようになる。
「普通」を比べて得られたのは、その気づきでした。

透明だった「普通」が見えるようになると、それまで当然だと思っていた法律や契約についても、少し違う問いを持つことができます。それは、誰の、いつの「普通」を前提として作られたものなのか。そして、その前提は、今も変わらず私たちの社会に通用しているのか。

比べることは、すぐに答えを出すためではなく、まず、そのような問いに気づくためにあるのかもしれません。